の音。驚いた武士が首を延ばして河の中を見下ろすと、苫船《とまぶね》が一隻|纜《もや》っている。とその苫が少し引かれて半身を現わした一人の船頭。じっと[#「じっと」に傍点]水面を隙かしているのは老人の死骸を探すらしい。
とたんに寒月が雲を割り蒼茫たる月光が流れたが、二人はハッと顔を見合わせた。船頭の頬には夜目にも著《しる》く古い太刀傷が印されている。
三
寛永といえば三代将軍徳川家光の治世であったが、この頃三人の高名の賊が江戸市中を徘徊した。庄司甚内《しょうじじんない》、勾坂《こうさか》甚内、飛沢《とびさわ》甚内という三人である。姓は違っても名は同じくいずれも甚内と称したので、「寛永三甚内」とこう呼んで当時の人々は怖《お》じ恐れた。
無論誇張はあるのであろうが「緑林黒白」という大盗伝には次のような事が記されてある。
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「庄司甚内というは同じ盗賊ながら日本を回国し、孝子孝女を探し、堂宮の廃《すた》れたるを起こし、剣鎗に一流を極わめ、忍術に妙を得、力量三十人に倍し、日に四十里を歩し、昼夜ねぶらざるに倦む事なし。
飛沢甚内というは同列の盗賊にして、剣術、柔術は不鍛錬なれど、早業に一流を極わめ、幅十間の荒沢を飛び越える事は鳥獣よりも身体軽《みがる》く、ゆえに自ら飛沢と号す。
勾坂甚内の生長は、甲州武田の長臣高坂弾正が子にして、幼名を甚太郎と号しけるに、程なく勝頼亡び真忠の士多く討ち死にし、または徳川の御手《みて》に属しけるみぎり甚太郎幼稚にして孤児となるを憐れみ、祖父高坂|対島《つしま》甚太郎を具して摂州芥川に遁がれ閑居せし節、日本回国して宮本武蔵この家に止宿《とま》る。祖父の頼みにより甚太郎を弟子とし、その後武蔵武州江戸に下向し、神田お玉ヶ池附近に道場を構え剣術の指南もっぱらなり。ここに甚太郎は十一歳より随従して今年二十二歳、円明流の奥儀悉く伝授を得て実に武蔵が高弟となれり。これによりて活胴《いきどう》を試みたく、窃《ひそ》かに柳原の土手へ出で往来の者を一刀に殺害しけるが、ある夜飛脚を殺し、鉾《きっさき》の止まりたるを審《あやし》み、懐中を探れば金五十両を所持せり。これより悪行面白く、辻斬りして金子《きんす》を奪いぬ。その頃鎌倉河岸に風呂屋と称するもの十軒あり。湯女《ゆな》に似て色を売りぬ。この他江戸に一切売色の徒なし、甚太郎
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