三甚内
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)森然《しん》と

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|殺《や》られ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)つと[#「つと」に傍点]
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        一

「御用! 御用! 神妙にしろ!」
 捕り方衆の叫び声があっちからもこっちからも聞こえて来る。
 森然《しん》と更けた霊岸島の万崎河岸の向こう側で提灯の火が飛び乱れる。
「抜いたぞ! 抜いたぞ! 用心しろ」
 口々に呼び合う殺気立った声。ひとしきり提灯が集まって前後左右に揉み合ったのは賊を真ん中に取りこめたのであろう。しかし再びバラバラと流星のように散ったのは、取り逃がしたに相違ない。
「あッ」――と悲鳴が響き渡った。捕り方が一人|殺《や》られたらしい。
「逃げた逃げた、それ追い詰めろ!」
 ドブン! ドブン! と、水の音。捕り方が河へ投げ込まれたのだ。
 一つ消え二つ消え、御用提灯が消えるに連れて呼び合う声も遠ざかり、やがて全くひっそりとなり、寛永五年|極月《ごくげつ》の夜は再び静けさを取り返した。
 河岸《かし》の此方《こなた》の川口町には材木問屋ばかり並んでいたが、これほどの騒ぎも知らぬ気《げ》に潜《くぐ》り戸を開けようとする者もなく、森閑として静かであったが、これは決して睡っているのではなく、係合《かかりあ》いを恐れて出合わないのである。
 おりから一人の老人がひしと胸の辺を抱きながら追われたように走って来た。と、スルリと家の蔭から頭巾を冠った着流しの武士が、擦れ違うように現われたがつと[#「つと」に傍点]老人をやり過ごすと、クルリと振り返って呼び止めた。
「卒爾《そつじ》ながら物を訊く。日本橋の方へはどう参るな?」
「わっ!」
 と老人はそれには答えずこう悲鳴をあげたものである。
「出たア! 泥棒! 人殺しイ!」
 これにはかえって武士の方がひどく仰天したらしく、老人の肩をムズと掴んだが、四辺《あたり》を憚る忍び音《ね》で、
「拙者は怪しい者ではない。計らず道に迷ったものじゃ。人殺しなどとは何んの痴事《たわごと》。これ老人気を静めるがよい」
 努めて優しく訓《さと》すように云っても、捕り方の声に驚かされて転倒している老人の耳へは、それが素直にはいりようがない。
「出合え出合え
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