の箱が置いてある。
 どうやら大事の品らしい。
 春陽が小屋の中へ射し込んでいる。街道を通る旅人が見える。淀川の流れが流れている。
 白帆が上流へ帆走っている。
「流石は山内伊賀之助、眼力に狂いがなかったよ」
 こういったのは乞食である。寂しい苦笑が口許に浮かび、顔全体を憂欝に見せる。
「けっく妾にとりましては、その方がよろしゅうございました。ご一緒に住めるのでございますもの」
 こういったのは女である。嬉しそうにその眼を輝かせている。
「大岡越前と来た日には、煮ても焼いても食えない奴さ。伊賀之助の首を持参したら、俺の真意を早くも察し、乞食姿の俺を招じ、途方もなくご馳走をした揚句、政治というもののむずかしいことと、役人というものの苦衷とを、いろいろ話して聞かせた上、紋服を一|襲《かさね》くれたのだからな」チラリと長方形の箱を見たが「アッハハハ何んという態だ、ひどくその時の俺と来たら、しんみり[#「しんみり」に傍点]とした気持になり、切ってかかろうともしなかったのだからな」
「でもその時越前守様が、おっしゃったそうではございませんか『一年の間考えるがよい』と」
「ああ然うだよ、そういったよ。そうして今日が一年目だ」
「どう考えがつきました?」鳥渡不安そうに女が訊いた。
「俺はこんなように考えて了った。「一年考えるということが、もう抑々間違いだった」とな。……一年の間考えてごらん、張り切った精神なんか弛んでしまう。復讐なんていうものは、一種の熱気でやる可きものさ。考えたら熱気が覚めてしまう」
「それではせめて紋服なりと、刀でお突きなさりませ」
「そうさなあ、紋服をお出し」
 立ち上がった女箱を取ると、ポンとばかりに箱の蓋をあけた。
 差し延ばした乞食の手につれて、現れたのは一襲の紋服。
 スラリ刀を引き抜いて、グッとばかりに突くかと思ったら、刀も抜かず突きもせず、紋服をヒラリと着たものである。
「どんなように見える? 似合うかな?」
「ちっともお似合い致しません」
「そうだろうとも然うだろうとも、矢っ張り町奉行の品格がないと、町奉行の衣裳は似合わないと見える」
「お脱ぎなさりませ、そんな衣裳」
「うむ」というと脱ぎすててしまった。
「お怨みなさりませ一刀」
「馬鹿をおいい」と笑い出した。「予譲にまでは成り下がらないよ」
 菜の花の匂いが匂って来た。遠くで犬の吠声がする。
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