出して来ると云うではないか。だから迂濶には手が出せぬ。変にうっかり手を出して犬めに傷でも付けたが最後、玄龍先生のおっしゃられたように、軽いところで遠島じゃ」
「ふうむ、なるほど、それで解った」半兵衛は初めて頷いたのである。
五代将軍綱吉は、聡明の人ではあったけれど、愛子を喪《うしな》った悲嘆の余りにわかに迷信深くなり、売僧《まいす》の言葉を真に受けて、非常識に畜類を憐れむようになり、自身|戌年《いぬどし》というところから取り分け犬を大事に掛けた。病馬を捨てたために流罪になり犬を殺したために死罪となった、そういう人間さえ出るようになって、人々は不法のこの掟をどれほど憎んだか知れないのであった。
三
三日見ぬ間の桜も散り、江戸は青葉の世界となった。
奈良茂は今日も揚屋の座敷で、いつもの取り巻にとり巻かれながら、うまくもない酒に浸っていた。いよいよ身請けという段になって、にわかに浦里が冠《かぶり》を振り、彼の望みに応じようともしない。酒のまずい原因である。あれほどまでに心を許し慣れ馴染《なじ》んで来た浦里が、これという特別の理由もないのに、彼の心に従わないのが、彼には不満でならなかった。
「それだけはどうぞ堪忍して。少し望みがありますゆえ」と、いくら尋ねてもただこういって浦里は他には何もいわない。日頃女を信じ切っていたため、その女からこう出られると、裏切られたような気持ちがして、彼は心が落ち着かないのであった。
それに近頃若い男が、彼に楯突いて浦里のもとへ、しげしげ通って来るという、厭な噂も耳にしたので彼は益※[#二の字点、1−2−22]|焦心《いらいら》した。
「仮りにも俺に楯突こうという者、紀文の他にはない筈だ」
いったい其奴《そやつ》は何者であろう? 自尊の強い性質だけにまだ見ない恋敵《こいがたき》に対しても、激しい憤りを感じるのであった。
奈良茂の機嫌が悪いので、半兵衛や民部は心を傷《いた》め、いろいろ道化たことなどを云って浮き立たせようとするのであったが、周囲《まわり》が陽気になればなるほど彼の心は打ち沈んだ。酒ばかり煽《あお》って苦り切っている。
一蝶や其角《きかく》は取り巻とはいっても一見識備えた連中だけに、民部や半兵衛が周章《あわ》てるようには二人は周章てはしなかった。
「金の威力で自由にしようとしても、自由にならないものもある。女の心などはまずそれだ。自由にならないから面白いとも云える。それを怒ったでは野暮というものだ」心の中ではこんなようにさえひそかに考えているのであった。
佐々木玄龍は所用あって今日は座席には来ていなかった。
「宗匠、何んと思われるな、紅縮緬《べにちりめん》のやり口を?」一蝶は其角に話しかけた。
「それがさ、実に面白いではないか。白縮緬《しろちりめん》に張り合って、ああいう手合いが出るところを見ると、世はまだなかなか澆季《すえ》ではないのう」
其角は豪放に笑ったが、
「この私《わし》に点を入れさせるなら、紅縮緬の方へ入れようと思う」
「私《わし》にしてからがまずそうじゃ。紅縮緬の方が画に成りそうじゃ」一蝶はそこで首を捻ったが、
「それにしても彼奴ら何者であろうの? いつも三人で出るそうじゃが」
「いやいやいつもは二人じゃそうな。一人は若衆、一人は奴《やっこ》、紅縮緬で覆面して夜な夜な現われるということじゃ。もっとも時々若い女がそれと同じような扮装《みなり》をして仲間に加わるとは聞いているが」
「さようさよう、そうであったの……何んでもその中の若衆が素晴らしい手利きだということじゃの。暁|杜鵑之介《ほととぎすのすけ》とかいう名じゃそうな」
「いずれ変名には相違ないが、季節に合った面白い名じゃ」しばらく其角は打ち案じたが、「暁に杜鵑か、それで一句出来そうじゃの」
「お前がそれで一句出来たら、私が一筆《ひとふで》それへ描こう」
「いや面白い面白い」
そこへこれも取り巻の二朱判吉兵衛が現われたので、にわかに座敷が騒がしくなった。
「やい、吉兵衛、よく来られたの!」
奈良茂の癇癪《かんしゃく》は吉兵衛を見ると一時にカッと燃え上がった。
「誰か吉兵衛を引っ捉えろ!」奈良茂は自分で立ち上がった。
「早く剃刀《かみそり》を持って来い! 彼奴を坊主に剥《む》いてやる!」
吉兵衛は大形に頭を抱え座敷をゴロゴロ転がりながら、さも悲しそうに叫ぶのであった。
「お助けお助け! どうぞお助け! 髪を剃られてなるものか! ハテ皆様も見ておらずとお執成《とりな》しくだされてもよかりそうなものじゃ!」
「やい、これ、吉兵衛の二心め! よも忘れてはいまいがな! 今年の一月京町の揚屋で俺が雪見をしていたら、紀文の指図で雪の上へ小判をバラバラばら蒔いて争い拾う人達の下駄でせっかくの雪を泥にし
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