ったが、尚|跫音《あしおと》は聞こえていた。間もなくそれさえ聞こえなくなって大江戸の夜は明け近くなった。
紋十郎と同心とは、下げた頭を尚下げたまま、互いにいつまでも黙っていた。度胆を抜かれた恰好である。
「すんでにあぶないところであったぞ」紋十郎は呟きながら、闇の中へ消えた駕籠の後を、しばらくじっと眺めやったが、首を捻って腕を組んだ。
解《げ》せないところがあるからでもあろう。
二
こういう出来事があってから幾月か経って春となった。元禄時代の春と来ては、それこそ素晴らしいものである。「花見の宴に小袖幕を張り、酒を燗するに伽羅《キャラ》を焚き」と、その頃の文献に記されてあるが、それは全くその通りであった。分けても賑わうのは吉原で、豪華の限りを尽くしたものだ。
遊里で取り分け持てるのはすなわち銀座の客衆で、全くこの時代の銀座と来ては三宝四宝の吹き出し最中で、十九、二十の若い手代さえ、昼夜に金銀を幾千《いくら》ともなく儲け、湯水のように使い棄てた。
しかし豪奢なその銀座衆さえ、紀伊国屋文左衛門には及ばなかった。奈良屋茂左衛門にも勝てなかった。そしてこの両人の豪遊振りについては、大尽舞いの唄にこう記されている。
「そもそもお客の始まりは、高麗《こま》唐土《もろこし》はぞんぜねど、今日本にかくれなき、紀伊国文左に止どめたり。さてその次の大尽は、奈良茂の君に止どめたり。新町にかくれなき、加賀屋の名とりの浦里の君さまを、初めてこれを身請けする。深川にかくれなき黒江町に殿を建て、目算御殿となぞらえて、附き添う幇間《たいこ》は誰々ぞ、一蝶民部に角蝶や(下略)ハアホ、大尽舞いを見さいナ」
で、その奈良屋茂左衛門がまだ浦里を身請けしない前の、ある春の日のことであったが、取り巻を連れて吉原の新町の揚屋《あげや》で飲んでいた。
一蝶の作った花見の唄を、市川※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]校が節附けして、進藤※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]校の琵琶に合わせ、たった今唄ったその後を雑談に耽っているのであった。
「この泰平の世の中に、不思議のことがあるものじゃの」
独言《ひとりごと》のようにこう云ったのは、書家の佐々木玄龍であった。やはり取り巻の一人ではあったが、さすがに身分が身分だけに、人達から先生と呼ばれていた。
「不思議の事とは何んですかな?」
大仏師の民部がすぐ訊いた。彼はまたの名を扇遊とも云って、英《はなぶさ》一蝶とは親友であったが、人を殺した事さえある胆の太い兇悪な男である。
「なにさ、近頃評判の高い、白縮緬組の悪戯《いたずら》をフイと思い出したと云うことさ」
「ああ彼奴らでございますか。いや面白い手合いですな。さすがの北条安房守様も手が出せないということですな」
「相手が千代田の御殿女中と来ては町奉行には手は出せまいよ」
「と云って見す見す打遣《うっちゃ》って置くのも智恵がないじゃございませんか」
「全く智恵がありませんな」こう云って横から口を出したのは、商人で医者を兼ねた半兵衛であった。村田というのがその姓で、聞き香、茶の湯、鞠、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]花、風流の道に詳しい上に、当代無類の美男であったので「色の村田の中将や」と業平《なりひら》中将に例えられて流行唄《はやりうた》にさえ唄われた男。やはり取り巻の一人であった。
「全く智恵がありませんな。それに第一不都合じゃ。悪戯をするに事を欠いて、御殿女中ともあろう者が白縮緬《しろちりめん》で顔を隠し、深夜に町家へ押し入って押し借りをするのを咎められないとは、沙汰の限りではありませんかな」
「いかにも沙汰の限りではあるが、さてそれがどうにも出来ないのじゃ」玄龍は苦笑を頬に浮かべ、「どうにもならないその訳も色々あるが迂濶《うかつ》には云えぬ。迂濶にいうと首が飛ぶ。軽くて遠島ということになる」
「へえ、遠島になりますかな? いやこいつはたまらない」半兵衛は首を縮めたが、「変な時世になったものじゃ。私《わし》には一向解らない」
すると、座敷の隅の方で、其角《きかく》を相手に話し込んでいた英《はなぶさ》一蝶が坊主頭を、半兵衛の方へ振り向けたが、
「石町《こくちょう》、焼きが廻ったの。それが解らぬとは驚いたな」
「お前には解っているのかえ?」
「解っているとも大解りじゃ」
「一つ教えて貰いたいな」
「生類憐れみのあのお令《ふれ》な。あれに触れたら命がない。それはお前にも解っていよう?」
「それがどうしたというのだえ?」
「これはいよいよ驚いた。これまでいっても解らぬかな……今の話の白縮緬組、南都の悪僧が嗷訴《ごうそ》する時|春日《かすが》の神木を担《かつ》ぎ出すように、お伝の方の飼い犬を担ぎ
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