彷徨《さまよ》っていた。そうして木間越しには、例の池と滝とが、大量の水を湛《たた》えたり、落としたりしていた。
鳥羽、伏見で敗れた将軍家が、江戸城で謹慎していることだの、上野山内に、彰義隊《しょうぎたい》が立籠っていることだの、薩長の兵が、有栖川宮様《ありすがわのみやさま》を征東大総督に奉仰《あおぎたてまつ》り、西郷|吉之助《きちのすけ》を大参謀とし、東海道から、江戸へ征込《せめこ》んで来ることだのという、血腥《ちなまぐさ》い事件も、ここ植甚の庭にいれば、他事《よそごと》のようにしか感じられないほど、閑寂であった。
「姐《ねえ》さん、よくご精が出ますね」
と、印袢纏《しるしばんてん》に、向鉢巻《むこうはちまき》をした留吉は、松の枝へ、一鋏《ひとはさ》みパチリと入れながら云った。
お力は、簪《かんざし》で、髪の根元をゴシゴシ引掻《ひっか》いていたが、
「何よ」
「沖田さんのご介抱によく毎日……」
「生命《いのち》の恩人だものね」
「そりゃアまあ」
「あの晩かくまっていただかなかったら、斬合いの側杖《そばづえ》から、妾《あたし》ア殺されていたかもしれないんだものね」
「そりゃアまあ……」
「それに沖田さんて人、可愛らしい人さ」
「へッ、へッ、そっちの方が本音だ」
「かも知れないわね」
「あっしなんか何《ど》んなもので」
「木の端《はし》くれ[#「くれ」に傍点]ぐらいのものさ」
パチリ! と留吉は、切らずともよい、可成り大事な枝を、自棄《やけ》で、つい切って了《しま》い、
「ほいほい、木の端くれか、……と、うっかり木の端くれ[#「くれ」に傍点]を切ったが、こいつ親方に叱られそうだぞ。……と、いうようなことはお預けとしておいて、木の端くれ[#「くれ」に傍点]だなんて云わずに、どうですい、この留吉へも、……」
お力は返事もしないで、木間を隙《すか》して、離座敷の方を眺めた。
その離座敷では、沖田総司と、近藤勇とが話していた。
勇が来訪《たずねてき》たので、お力は、座を外したのであった。
勇の説得
この離座敷へも、午後の春陽《ひ》は射して来ていて、柱の影を、畳へ長く引いていた。
「板垣退助が参謀となり、岩倉具定を総督とし、土州、因州《いんしゅう》、薩州《さっしゅう》の兵三千、大砲二十門を引いて、東山道軍と称し、木曾路から諏訪へ這入り、甲府を襲い、甲府城
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