邂逅した。それから再び家を出て世界の旅へ上ったのである。旅へ出かけた目的は? 恐らく私が説明しても誰も信用しないだろう。余りに荒唐な話しだから。つまり私は手箱の中の羊皮紙に書いてある文字を手頼《たよ》りに雌雄二つの水晶の球を探し当てようそのために世界の旅へ上ったのである。こうしてその球を見つけた時こそ私の運の開ける時で、実に私は一朝にして巨億の財産家になれる筈であった。
 ほんとに私は三年の間世界の国々を経巡《へめぐ》った。金がなくなれば労働をし、金が出来ると先へ進み、亜細亜《アジア》と亜米利加《アメリカ》と欧羅巴《ヨーロッパ》とをほとんど皆尋ね廻り三月前から西班牙《スペイン》のこのマドリッドへ来たのであった。多くの支那人がそうであるように料理にかけてはこの私もかなり自信を持っていた。いよいよ金がなくなって労働をしなければならない時には私はいつも料理人《コック》になった。おんなじでん[#「でん」に傍点]でマドリッドへ来るや伝《つて》を求めてこの旅館の料理人《コック》に私はなったのである。そして機会を待ったのである。阿弗利加《アフリカ》へ渡るその機会を……がしかし今では阿弗利加などは全く眼中になくなってしまった。球は手近で発見された。そして私はその球を追って西域の沙漠へ向かうのだ。彼らと一緒に向かうのだ。彼ら探険隊の一行と――
 私は喜びと不安とのためにドキドキ心臓が動悸をうつ。しかし勇気が衰えない。何んの勇気が衰えるものか。何がいったい不安なのか? 彼ら探険隊の一行の中の頭領とも云うべきラシイヌ探偵、副頭領とも云うべきレザール探偵、二人を恐れるそのためにか? ほんとに二人は抜け目のない鋭い人間には相違ないがしかし私は恐れない。何んの私が恐れるものか、先方でこっちを恐れるがいい。
 卿ら、探険隊の諸君達! 卿らの守っている運命の球を出来るだけ大切にするがいい。隙を見てその球を奪おうとする支那の青年がいるのだから。料理人《コック》として卿らが雇い入れた張という支那の青年に眼を離さない方がよいだろうと敢て僕は諸君に警告する……
 ――孔雀の啼き声が聞こえて来る。鸚鵡の啼き声が聞こえて来る。冬薔薇の匂いが匂って来る。陽の落ちた後の夕空を夕映えが赤く染めている。明日は恐らく天気だろう。この食堂ともおさらばだ。そろそろ料理人《コック》部屋へ帰って行って荷造りの真似でもやることにしよう。
 明日は沙漠へ向かうのだ。沙漠が私を呼んでいる……(備忘録下略)

        七

「あの女を君はどう思うね?」
 ラシイヌは小声で囁《ささや》いた。
「前から気がついてはいましたが、土耳古《トルコ》型の素晴らしい美人ですね――あれをモデルにして描きたいものだ」
「描かざる画家」のダンチョンはこれも小声で囁いた。ラシイヌはちょっと舌打ちをしたが、ニヤリと苦笑したものである。
「君の描きたいねも久しいものだ。描きたい描きたいというばかりで何一つ君は描かないじゃないか。だから皆が君のことを描かざる画家のダンチョンだなんて下らない綽名《あだな》をつけたのさ――あれほど君が意気込んでいた『獣人』の絵だってまだ描かない。ほんとに君はなまけ者だ……それはそうと向こうのあの女だが、君は変だとは思わないかね?」
「変だって何が変なんです?」
「そういう返辞が出るようなら君には向こうのあの女の変なところが解らないと見える。いいかいよっく見てみたまえ、今あの女は下を向いて熱心に新聞を見てはいるが、その実新聞を見ているのではなく僕らの様子を見ているのだよ」
「なんで僕らを見るのでしょう?」
「さあね、そいつは解らない。わからないから不思議なのさ。いったいどこからあの女はこの列車へ乗り込んだのだろう?」
「チェリアビンスクからだと思います」
「よく君はそんなことを知っているね?」ラシイヌはちょっと不審そうに訊いた。
「知ってるわけがあるんです」ダンチョンは何んでもなさそうに、「絵葉書を買おうと思いましてね、チェリアビンスクで汽車が止まると僕は早速下りました。プラットホームへ下りたんです。下りた拍子に僕の胸へぶつかって来た者があったのでヒョイと顔をあげて見るとですね、土耳古《トルコ》美人が立っているのです。『ごめん遊ばせ』と仏蘭西語《フランスご》で云って顔を赧らめたというものです。見ると女の荷物を担いだ赤帽が背後《うしろ》に立っていました。だからあの駅で乗車《の》ったんですよ」
「ふうん、あの女がぶつかった? たしかに君にぶつかったんだね? 実は僕にもぶつかったのさ。クルガンの停車場へ停車《つ》く前に煙草《たばこ》を喫《の》もうと思ってね、喫煙室へ出かけたものさ。あの女の前を通った時だ。不意に女が立ち上がって僕の腰の辺へぶつかったよ。その時僕は敏捷に働く手の触覚を感じたものだ。ズボンのポケットの辺にだね」
「きっと偶然にさわったんでしょう。あんなに美しい若い女がまさかに掏摸《すり》はやりますまい」
「…………」ラシイヌは返辞をしなかった。見て見ないような様子をして、列車の片隅に腰かけながら新聞を見ている疑問の女へじっとその眼をやったものである。
 十二月極寒の西伯里《シベリア》を、巨大なインターナショナル・ツレーンは、吹きつける吹雪を突き破り百足《むかで》のような姿をしてオムスク指して駛《はし》っている。しかし室内は暖かい。暖かい室内には乗客達が各自《めいめい》好みの外套を着て毛皮の襟をしっかりと合わせ座席に腰かけて話している。一等客室のことであるから、誰を見ても大概はカルチュアされた立派な紳士や淑女達で話している言葉も上品であった。モスクバ訛りの鼻声で声高に話している夫婦者、病身らしい十八、九の蒼ざめた娘はその横の方でじっと黙って聞いている。恐ろしいほどによく肥《ふと》った宝石商らしい老人は、自分の前に腰かけている貴公子風の美男子をとらえて、パミール高原で見つけたという黒|金剛石《ダイヤ》の話しを話している。その横の方では支那商人が、あたりの様子には無関心に、琥珀《こはく》のパイプで雲南煙草をポカリポカリと喫っている。見廻りのボーイがやって来ると周章《あわ》ててパイプを隠すのであった。小露西亜《ウクライナ》あたりの地主らしいむんずりと肥えた四十男は先刻から熱心に玻璃窓を通して日没の曠野の光景を一人黙って眺めていたが、やがてポケットから骨牌《かるた》を出して一人で占ないをやり出した。蒙古の豪族とも思われる五人の伴《とも》を連れた老人は、卵型をした美貌を持った妙齢の支那美人を側へ引き寄せ仲よく菓子を食べている。五人の従者はその様子を東洋流の無表情の眼でむしろ慇懃《いんぎん》に眺めている。トルキスタン人の一団はずっと向こうの客車の隅で、何か間違いでも起こったと見えて、口やかましく論じている。そのトルキスタン人の一団を左手に見た片隅に、土耳古《トルコ》型の美貌の持ち主の問題の女がいるのであった。きわめて豪奢な狐の毛皮の大型の外套をふっくりと着て体全体を隠してはいるが、強靱な、それでいてスラリとした、きゃしゃではあるが弾力のある、素晴らしく優秀な肉体が外套を通してうかがわれる。いちじるしく目立つのはその帽子だ。それは深紅の土耳古《トルコ》帽で、帽子を洩れて漆黒の髪が頸《うなじ》へ幾筋かかかっている。匂うばかりの愛嬌を持った。それでいて鋭い鋼鉄の眼、羅馬《ローマ》型ではない希臘《ギリシア》型の、顫《ふる》えつきたいような立派な鼻、その口は――平凡な形容だが――全く文字通り薔薇のようだ。可愛らしく小さい紫色の靴、形のよい細っそりとした黄色い手袋……
 彼女は新聞を膝へ置いてちょっと小首を傾げた後、側のバスケットの蓋をあけて中から林檎《りんご》を取り出した。それから彼女は手袋を脱いで林檎の皮をむき出した。露出した手首が陽に焼けて鳶色を呈していることは!
「ね」とラシイヌはダンチョンに云った。「どうしても怪しい女だよ。あれだけの美貌とあれだけの服装。どう踏み倒しても命婦《めいぶ》だね。土耳古《トルコ》皇帝の椒房《ハレム》にいる最も優秀なる命婦だよ。皇妃と云ってもいいかも知れない。ところがどうだい、あの手の色は! まるっきり労働者の手の色だ……でそこで僕は思うのだ。あいつは唯の女じゃないよ」
「それじゃ掏摸《すり》だとおっしゃるので? あの素敵もない別嬪を?」ダンチョンは不平そうに云ったものである。「僕には怪しいとは思われませんね。彼女はきっと旅行家でしょう。だから陽に焼けているんですよ」
「手首だけ陽に焼けるわけがないよ」
「土耳古《トルコ》婦人はいつの場合でも面紗《ヴェール》で顔を隠すそうです。顔や頸《うなじ》が焼けなくて手首だけ焼けるのはそのためでしょう」
「なるほど」とラシイヌは微笑して、「その解釈はよいとしても、どうして常時《しょっちゅう》僕らの方へああも視線を向けるのかね。あいつの注意を引くような好男子は一人もいない筈だ」
「視線を向けると思うのは恐らくあなたの眼違いでしょう。僕にはそうは見えませんものね」
「よし」とラシイヌは語気を強め、「レザールの意見を聞くとしよう」
 彼は車中を見廻したが、同業であり後輩である私立探偵レザールは、どこの腰掛けにも見えなかった。はるか向こうの窓際にこの一行の立て役者の博言博士マハラヤナ老が――世界を挙げて探しても十五人しかいないという回鶻《ウイグル》語の学者とは思われないほどの好々爺然とした微笑を含んでコクリコクリ居眠りをしている横に、これもやっぱり同行の冒険好きの医学士で一行の衛生を担任しているカルロス君がいるばかりで、レザールの姿はどこにも見えない。
 ラシイヌはいくらか不安になった。というのは一行の守り本尊の水晶の球を密封した鉄の手箱をそのレザールが体に着けているからである。
 ラシイヌは席から立ち上がった。しかしその時連結されている隣りの客車の扉があいて、レザールがそこから現われたのでラシイヌは安心して腰かけた。
 レザールは何故か眉をひそめラシイヌの側へやって来たが、耳へ口をつけると囁いた。
「あなたは料理人《コック》をどう思います? あの張という支那人を?」
「変ったことでもあるのかね?」ラシイヌは不思議そうに訊き返した。
「地図を持っているのですよ」
「地図※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」とラシイヌは眼を見張った。その眼でレザールを見守って、「もっと詳細《くわし》く話したまえ」
「今……」とレザールは話し出した。「オムスクへ着くのも間もないので一応道具類を見て置こうと三等の客車へはいって行きますと、監視を命じておいたあの張が道具の積み重ねを前にして熱心に何かを見ているのです。近寄って肩越しに見るとですね。西域の地図じゃありませんか。『張!』と私が声をかけるとバネ仕掛けのように飛び上がって地図を懐中《ふところ》へ隠しました。『地図を見せろ!』と嚇してもどうしても見せようとしないのです。『何んのために地図を持ってるか?』とかまわず詰問しましたところ、『幸いに縁あって皆様の探険隊の一員となって西域に向かうことが出来る以上は極力私も骨を折って皆様のお手伝いが致したいと思い西域の地図を求めました』とこういう彼の云い草です。『どこでその地図を手に入れたか?』尚も私が尋ねますと、『西域は支那の領地ですし私は支那人の事ですから地図などは容易に手に入ります』と何んでもないように云うのです。なるほど理窟にはかなっていますが、それほど理窟にかなっているなら尚の事地図を見せればよいのにどうしても見せようとしないのです」レザールはちょっと云い淀んだが、「こんな具合であの支那人は胡乱《うろん》な人間だと思いますので、いっそ思い切ってオムスク辺で解雇いたしたらいかがでしょう?」
「解雇するのもよかろうが旨い料理が食えなくなるね」ラシイヌはニヤニヤ笑いながら、「ところで張のその地図と僕らの持っている西域の地図とは全く同一のものだろうかね?」
「私は瞥見《べっけん》しただけで正確のところは云われませんが同一のものらしく見えました」
「僕らの持
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