そしてたった今湖水を指して発足したばかりです」
「湖水というのはどこにある?」
「南方十里の彼方です」
 ラシイヌも博士もこれを聞くと顔を見合わせて微笑した。手掛かりを握ったからである。土人を二、三人案内にしてすぐ南方へ足を向けた。途中で一夜、夜を明かし翌日の正午《ひる》ごろそこへ着いた。湖水は波も平らかに凍りもせずに澄んでいる。岸に一艘の獣皮の船が水に軽々と浮かんでいる。ラシイヌと博士は船へ行って中の様子を調べて見た。鉄の手箱が空のままで船の中に二つ置いてある。そしてその横に手帳がある。表紙に書いてある六個の文字――「備忘録、張教仁」と鮮かに……
 マハラヤナ博士は声を立てて備忘録の文章を読んで行った。張という人物のいかなる者かを二人は初めて了解した。湖水の岸の洞穴が開いて流れ込む水に連れられて三人を乗せた獣皮の船が同じく洞穴へ流れ込んだと記してあるあたりの文章は、博士とラシイヌとを驚かせた。二人は手帳から眼を放して湖岸を見廻したほどである。しかしもちろんどの岸にもそんな洞穴は開いていない。備忘録の最後の頁にはこんな意味のことが書いてあった。
 沙漠の地下にこんなに大きい、こんなに賑やかな古代都市が、そっくりそのまま建っていて歴史上既に亡びている回鶻《ウイグル》人が生きていて元気に働いていようとは、何という文明の驚異だろう。驚異ではあるが夢ではない。私達三人はその都会で市民達によって、今、現在、未曽有の歓迎を受けている。ああその都会の美しさ――それは現代の美ではない。それは天国の美しさだ――ああその都会の不思議さは文字や言葉ではあらわせない。そしてついに我々は水晶の球にからまっている巨財についての不思議な謎をいとも容易に解くことが出来た。市民達が教えてくれたのだ。吾らはその富を獲るために近日地下の都会を出て南の方[#「南の方」に傍点]へ行こうと思う。新しい船の用意も出来、新しい手帳の準備も出来た。もうこの古い獣皮の船、もうこの穢れた備忘録、私には不用のものとなった。地下水道を逆流するロブノール湖の水に託して沙漠にいる人々へ送ろうと思う。博言博士にラシイヌ閣下、ダンチョン君にレザール氏、さようならさようなら!
 不思議と暖かい日であった。そのくせ空は曇っている。そしてそよとの風もない。探検隊の一行は沙漠にいる必要がなくなったので、出発の準備にとりかかった。
 博士とラシイヌとは肩を並べ沙漠を的《あて》なく逍遙《さまよ》いながら、感慨深そうに話し合った。
「あなたを印度《インド》からお呼びしてわざざわざ参った甲斐もなく探検は失敗に終りました。あなたに対してもお気の毒で済まないことに思っています」
「いやいや」と博士は打ち消した。「私《わし》に斟酌《しんしゃく》は無用じゃよ。かえってあんたにお気の毒じゃ。さぞまあ落胆したろうが、これも一つの運命じゃ」
「それにしても博士、地下などに、ほんとに都会があるものでしょうか?」
「沙漠のことじゃ、そんなことも、全然ないとは云われまい」博士はちょっと考えてから、「つまり沙漠は文明の墓じゃ。死んだ者ばかり住んでいるところで、人界でもあることだが仮死の状態の人間をうっかり死んだと誤認して墓に持ってくることがある。それとそっくり同じで沙漠の暴風が一晩吹いて、砂上に出来ている大都会を一夜に葬ることがあるが、葬られながら尚地下で生きていないとも限らない」
「そうかと思うと一夜のうちに、暴風が砂を吹き上げて、埋没した都会を一瞬間に地上へ出すということを何かの本で見ましたが、そういうこともあるのでしょうね?」
「そういうこともあるそうだ」博士は幾度も頷いた。
 この言葉が讖《しん》をなしたのか、果然、その晩、季節はずれの暴風が一夜吹きつのった。そして眼の前の砂丘の上へ石の標柱を現出した。それに刻まれた回鶻《ウイグル》語を博士が朗々と読んだ時、ラシイヌもレザールもダンチョンも息をひそめて傾聴した。
 我らの国家亡びんとす。キリスト教徒は我が敵なり。
 巨財を砂中に埋ずむべからず。南方|椰子《やし》樹の島国に送る。形容は逆蝶。子孫北方に多し。
 三羊皮紙に内容を書し亜細亜《アジア》の天地にこれを送り、一柱二晶に解釈を記す。
「形容は逆蝶、子孫北方に多しか……」しばらく経ってからこう云ってラシイヌはじっと考えた。と不意にクルリと身を翻えして天幕《テント》の方へ馳せ帰った。万国地図を取り出して彼は仔細に調べだした。
「諸君、解った。濠州だ」ラシイヌは元気よく云い放った。
「見たまえ濠州のこの形を、逆にした蝶にそっくりだ。北方の海中に島が多い。だからすなわち子孫多しだ。思うに古代の回鶻《ウイグル》人は国家の亡びるその際に財産をあげて南洋へ送り濠州のどこかへ隠したと見える。そしてその事を水晶の球と石の標柱とに記したの
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