の詩は存じません。私の吟じたのは杜工部です」
「知らぬというのなら教えてやろう――私《わし》には思い出の詩じゃからの」
老人の言葉には威厳がある。底知れないような深みもあり聴いている人を押しつけるような圧力さえも持っていた。私は次第にこの老人に敬服するようになって来た。そして私は疑った。
「この老人は何者だろう? 官人かそれとも府の役人か? ただ者のようには思われない」しかし老人の顔の上には依然として木蘭の花の影が黒々と落ちているために確かめることは出来なかった。
その時老人は感慨をこめて杜荀鶴の詩を微吟した。
「利門名路両ナガラ何ゾ憑ラン、百歳ハ風前短焔ノ燈、只恐ラクハ僧ト為テ心了セザルコトヲ、僧ト為テ心了セバ総テ僧ニ輸セン――どうじゃな、これが杜荀鶴の詩じゃ。上手の作とは思わぬが私にとっては思い出の詩じゃ。只恐ラクハ僧ト為テ心了セザルコトヲ、私《わし》は若い時この詩を読んで一生の目的を定めたのじゃ。実はこの私《わし》も若い時にはちょうどお前と同じように名利の念に薄かった。布衣《ほい》であろうと王侯であろうと人間の一生は同じことじゃ。王侯などになったならかえって苦労が多かろう。布衣の方がなかなか気楽らしいなどと思っていたものじゃ。しかるにこの詩を見た時に私はほんとにこう思った。浮世を捨てて僧に成ってさえ決して心了せないものを布衣でいたなら尚のこと心は満足しないだろう。どのような位置にいたところで人の心は安まらない。同じく心が安まらないものなら、人と産まれた果報には、思い切ってこの身を働かせて大事業をするのも面白かろう。それが男子の本懐じゃ! つまりこのように思ったのじゃ。そこで私《わし》は考えた。富貴に向かおうか王侯に成ろうかとな、私《わし》は両方を征服しよう! 慾深くこのように考えた。それから私は努力《つと》めたものだ。二十年三十年四十年、馬車馬のように突き進んだ。そして美しかった青年の私《わし》が、いつの間にかこんな老人となり死病にさえもとりつかれて余命少くなってしまった。なるほど私《わし》は人間として得べきだけの福禄は得たけれど、得れば得るほど尚得たいという望蜀の念に攻められて安穏の日とては一日もない。そして私《わし》には敵がある。兇刃、鴆《ちん》毒、拳銃の類が四方八方から取り巻いている。そして私には死んだ人々の怨霊が日夜憑ついていて安らかな眠りを妨げる。私は金持ちだが金持ちだけにもっと大金が欲しいのじゃ。小さな野心は大野心を孕《はら》み大きな野心は最大の野心を産む。あらゆる人間は野心のために自分の身心を切りきざむ。私はその例のよい標本じゃ。そこで私はこう思った。杜荀鶴の詩《うた》を読んだ時に何故こんな決心をしたのだろう。こんな決心をする代りにいっそ出家をしていたら多少の安心は出来たろうと。今になっては返らぬ愚痴じゃ。もうどうしようにも仕方がない境遇が私を引っ張って行く。今さら出家はもう出来ぬ。私は境遇の傀儡《かいらい》となって盲目《めくら》滅法に進むまでじゃ。こういう憐れな境遇にいる私《わし》のせめてもの慰めといえば、夜な夜なこのように姿を変えてあらゆる人間から遠ざかり、一人自然の懐中《ふところ》へはいって悠々と逍遙することじゃ。しかし唯一のその楽しみも長く味わう事は出来ないだろう。私は死病に憑かれていてじきに死ななければならないからの」
老人はしばらく考えたが重々しい調子で云いつづけた。
「明日にも私《わし》は死ぬかもしれぬ。こう云っているうちにも死ぬかもしれぬ。そこでお前に頼みがある。いいや頼みというよりもむしろお前に慫慂《すすめ》るのだ。そうだ慫慂るのだ」
こう云って老人は懐中から小さな手箱を取り出したが、それを私の前へ置き、
「これをお前に進呈する。家へ帰って開くがいい。お前の今後の運命はこれによってきっと定まるだろう。もし手に余ると思ったら謹んで土に埋めるがいい。これは天から授かったものじゃ。最初は私に授かった。私は天からの授かりものを自分のものにしようとした。しかし今ではもう遅い。私の命数は定まっていて、どうすることも出来ないのじゃ。それで私への福運を改めて私からお前へ譲る。天から授かったと同じことじゃ。しかしどのような幸福でもそれを得ようと思うにはまず艱難を冒《おか》さねばならぬ。手箱の中にある幸福を完全に握ろうとするからにはやはり艱難を冒さねばならぬ。その艱難が恐かったらその幸福を捨てるがいい、手箱を土中へ埋めるがいい……しかしお前はこの私が初めて逢った他人のお前へこんな大切な幸福の箱を何故易々と渡すのかと不思議に思うかもしれないが、それは決して不思議ではない。正直のところこの私は手箱を譲ってやりたいような味方を一人も持っていない。私《わし》の周囲《まわり》にいる者は一人残らず皆敵じゃ。衣を纒
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