》とお留守をしていつまでもここにおりましょう。そして兄さんのご決心がとげられるように神様へお祈りをしておりましょう」
 優しい妹のこの言葉で決心は一層堅くなった。そこで充分妹のことを老婆に頼んだその後で私は家を出たのであった。孫文元帥の陣中では私は最初旗手であった。しかし間もなく自分から望んで軍事探偵の任務を帯び窃《ひそ》かに北京へ忍び込み讐敵の動静を窺った。袁総統の権勢は飛んでいる鳥を落とすほどで容易に接近出来なかった。それでも私は根気よく彼の身辺を窺《うかが》った。こうして星移り物変り幾星霜が飛び去って行った。果然|王※[#「くさかんむり/奔」、35−7]《おうもう》は頭巾を脱いでその野望をあらわした。袁皇帝と称えようとした。釜で煮られる湯のように中国はにわかに騒ぎ立ち袁討伐の呪いの声が津々浦々にまで鳴り渡った。国民の輿望を一身に負って袁討伐の征皷を四百余の州に響かせたのは孫文先生その人で、漢の代の王※[#「くさかんむり/奔」、35−10]を滅ぼした劉秀がこの世へ現われたかのように、先生の態度は勇ましく先生の人望は目覚ましかった。
 その頃私は名を変じ身分を変え、軽奴となって袁総統宮殿の門衛の一人に住み込んでいた。そうして機会を窺って国と父母の仇を刺そうとした。

 ある夜深更のことであった。おりから春の朧月が苑内の樹立《こだち》や湖を照らし紗の薄衣《うすもの》でも纒ったように大体の景色を※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけて見せ、諸所に聳えている宮殿の窓から垂帳《たれまく》を通して零《こぼ》れる燈火《ひ》が花園の花木を朧ろに染め、苑内のありさまは文字通り全く幻しの園であった。私は詰め所からうかうか出て苑内深く逍遙《さまよ》って行った。あたりは森《しん》と静かである。誰も咎める者もない。
「寂々タル孤鶯ハ杏園ニ啼キ、寥々タル一犬ハ桃源ニ吠ユ――」
 自分はその時劉長卿の詩を何気なく中音に吟じながら奥へ奥へと歩いて行った。そういえばほんとに花園の中で鶯が寝とぼけて啼いている。犬も遠くの方で吠えている。
「顛狂スルノ柳絮ハ風ニ随ツテ舞ヒ、軽薄ノ桃花ハ水ヲ逐フテ流ル――」
 杜工部の詩を吟《うな》った時には湖水に掛けた浮き橋を島の方へいつか渡っていた。橋を渡って島へ上り花木の間に設けられてある亭《ちん》の方へ静かに歩いて行った。
 その時嗄がれた老人の声が亭《ちん》の中から聞こえて来た。
「そこへ来たのは何者じゃ? いや何者でも構わない。話し相手になってくれ――さあここへ来て腰をかけろ」
 私はちょっと驚いたが構わず中へはいって行った。でっぷり肥えた小作りの、粗末な衣裳を身に纒った老人が縁に腰かけている。大輪の木蘭の花の影が老人の顔の上に落ちているのでハッキリ輪廓は解らなかったが、老人はじっと眼を閉じて何か考えているらしく、身動き一つしなかった。私も縁へ腰かけた。こうして二人はしばらくの間ものも云わずに向かい合っていた。
 と、老人は眼を開き、その眼を私に注いだが、
「お前はこの景色をどう思うな? 林泉、宮殿、花園、孤島、春の月が朧ろに照らしている。横笛の音色が響いて来る……美しいとは思わぬかな? ――もっともお前は打ち見たところまだ大変若いようだ。自然の風景の美しさなどには無関心かも知れないが」
「美しい景色だと思います。雄大ではありませんが華麗です。自然というよりも人工的で技巧の極致を備えています」
「君はなかなか批評家だ。いかにも君の云う通り技巧に富んだ風景じゃ。君はこういう庭園を所有したいとは思わぬかな?」
「所有《も》ってみたいとも思いますし、所有《も》ってみたくないとも思います」
 私が云うと老人は嗄がれた声で笑ったが、
「君はなかなか皮肉屋だね。ところで君のその言葉の、意味の説明を聞きたいものじゃ」
「これという意味もありませんが、こういう庭園を持つ者は王侯以外にはございません。こういう庭園を持つという意味は王侯になることでございます。男子と生まれて王侯となるのは目覚ましいことでもございますし願わしい限りでもございますが、さて王侯になって見たら側目《わきめ》で見たほどには楽しくもなく嬉しくもないかも知れません。楽しくも嬉しくもないのならこんな庭園を所有するような王侯になっても仕方がない。こう思うからでございます」
 すると老人は忍び音に面白そうに笑ったが、
「君は老子の徒輩と見える、虚無|恬淡《てんたん》の男と見える。二十《はたち》そこそこの若い身空でそう恬淡では困るじゃないか。どうやら君はここへ来る時詩を微吟していたらしいが、無慾の君のことだから、『|贈[#レ]僧《そうにおくる》』という杜荀鶴の詩でも、暗誦していたんじゃあるまいかな?」
「いいえ」と私は笑いながら、「杜荀鶴のそ
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