ては曲げ、幾十回となく繰り返した。
その時かすめた太鼓の音が――鈴の音のする手太鼓の音が、円座を作った真ん中から、夢のように微妙に聞こえて来た。とそれへ銀笛の音が混った。幽《かす》かに幽かに鉦《かね》の音も――その不思議な調和というものは! 人をして深い眠りを誘い、夢中で人を歩かせるような、また、この欧州のどこへ行ったとて、到底聞く事の出来ないような、東洋式のその調和! 単調で物憂い太鼓の音。人間の霊魂を地の底から引き出して来るような笛の音。聞く人の心をせき立てて犯罪の庭へでも追いやるような、惨酷な調子の鉦の音……小声で唱える合唱の祈祷《いのり》。そうしていつまでもいつまでも同じ礼拝をつづける男! 時刻は深夜の二時である。
レザールは物凄さに身顫いした。
物凄さはそれだけではすまなかった。次の瞬間に起こった事件の物凄さと不思議さとはレザールにとって生涯忘れられないものであった。
見よ、正面の石造りの、洋館の扉が徐々に開いて、そこから静々とあらわれた、燐光を纒った動物を! 動物の全身は白金が朝の太陽に照らされたようにカッと凄まじく輝いている。怪獣は石段を一飛びに飛んで、回教徒の円座へ近寄って来た。そうして四本足を折り、彼らの前へ蹲《うずく》まった。
教徒の唱える讃美の声はその時ひときわ高くなり、深沈と寂しい音楽の音は次第に急速に鳴り渡った。空間に手を上げ手を下げて何物かを熱心に招いていた彼らの中の一人が、その時その手を怪獣の背へ、電光のように触れたかと思うと、燐光の怪獣は一躍しちょうど火焔の球のように、広大な園内を一文字に門のある方へ走り出した。とその門が大きく開いて怪獣はそのまま街の方へ矢よりも速く走って行き見る見るうちに見えなくなった。
怪獣の姿が見えなくなるや音楽の音色は急に止み、十人の教徒は立ち上がった。そして動物の檻の方へ足を早めて歩き出した。手を上げて何物かを招いていたその男が先頭《さき》に立ちながら。
ラシイヌは急にしっかりとレザールの手を握ったものである。
「見たまえ、先頭のあの男を! 女中に化けて市長の家へ住み込んだのが彼奴《きゃつ》だよ」
「それでは女ではないのですね?」
レザールは驚いて訊き返した。
「なんの彼奴が女なものか。それに決して西班牙《スペイン》人でもない」
「ではいったい何者なので?」
「長く欧羅巴《ヨーロッパ》にはいたらしいが、たしかに彼奴は東洋人だよ。回鶻《ウイグル》人という奴さ」
「回鶻《ウイグル》人ですってあの男が? しかし現代の社会には回鶻《ウイグル》人という奴はいない筈じゃありませんか」
「歴史上では滅びているが、しかしあの通りいるのだよ」
「いったいどこから来たのでしょう?」
「新疆省の羅布《ロブ》の沙漠、羅布湖のある辺の流沙に埋められた昔の都会! そこから彼奴らはやって来たのだ!」
「で、どこへ行くのでしょう?」
「檻を開放しに行くのだよ。猛獣や毒蛇を檻から出して、マドリッドの市中へ追い放し、深夜の市中を騒がすためにね」
「いずれ理由《わけ》があるのでしょうな?」
レザールは髪を掻きむしった。
「理由はつまり復讐だ!」
「マドリッドへ復讐するのですか?」
「マドリッドの住人のある一人が、彼らを憤怒させたからさ」
「どんな悪いことをしたのでしょう? そうしてそれは何者です?」レザールは益※[#二の字点、1−2−22]いらいらした。
「マドリッド市長が彼らの宝の、経文の一部を取ったのだ――つまり発掘したんだね。そこで彼らはその経文を取り返すために出て来たのさ」
「ふうむ」とレザールは呻くように、「市長の書斎を掃きながら、贋物《にせもの》の女中が掃きすてたという、例の紙屑という奴が、その経文の一部ですな?」
「その紙屑を取り返すために、女中に化けて住み込んだり、燐光を放す狛犬を、人工で拵えておっ放し、市長を脅したってものさ」ラシイヌは悠々と説明した。
「私も贋物だと思いました」レザールはいくらか昂奮したが、「……つまり私はこの事件を、こんなように解釈しましたので……」
「話はゆっくり後で聞くが……君はいったい怪物を――燐光を放す怪獣を――何の贋物だと思ったかね?」
「恐らく犬か狼へ、燐光を放す薬品類を塗ったものだと思いました」
「犬か狼かいずれ直《じ》きに彼奴《きゃつ》の正体は解るだろう。……見たまえ見たまえ回鶻《ウイグル》人が、猛獣の檻を開いたから」
見ると彼らは四方に分かれ五つの檻の前へ立ち、パッと一斉に戸を開けた。そして烈しく叱咤した。
「シーッ、シーッ、シーッ、シーッ、シーッ、シーッー」
しかし猛獣は――獅子も虎も、容易に現われては来なかった。
が、その次の瞬間には、五つの檻から猛獣が――猛獣のような真っ黒のもの[#「もの」に傍点]が、吼《ほ》えながら一
前へ
次へ
全60ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング