の声が聞こえて来る……。
「……今まで手がけた事件のうちでこんな楽な事件はございませんて? 箍《たが》が弛んだぞ、おい、レザール! 君はまるっきりこの事件の性質というものを知ってないな! 表面きりしか見ていないな! だから暢気《のんき》でいられるんだ! 君はほんとにおめでたいよ! 君はまるっきり赤ん坊だ! 事件の奥の奥の方をちょっとでも君が覗いたら君はおそらく恐ろしさにそれこそ気絶してしまうだろう! 君はこの事件の根本をいったい何んだと思っているんだ? 恋愛でもなければ金でもない! もっと執念深い、もっともっと破天荒な人種と人種との争いなんだぜ! そうして、いいかい、しかも今夜、僕達がうっかりしていようものなら、このマドリッドの市民達の数百人は殺されるのだ! そうして、いいかい、この市中は、猛獣毒蛇の巣になるのだ――で君に命令する! 今夜二時にどうあっても動物園まで来てくれたまえ。いいかいレザール、忘れるなよ。僕の命令と云うよりもマドリッド市民の命令なのだ! 命令というより懇願なのだ!」
 ラシイヌの電話はここで切れた。レザールは両腕を組んだまま、深い疑惑に陥入《おちい》った。

        四

 動物園は市の中央、H公園の中にあった。公園の周囲《まわり》は目抜きの街路《とおり》で、十二時を過ぎても尚人通りが賑やかにゾロゾロ続いていた。しかしさすがに二時となると、商店では窓々の扉を鎖ざし電車の軋りも間遠となり、時々疾走する自動車の音が、人々の眠りを醒ますばかりであった。
 公園は樹木に囲まれていた。百年また数百年、年を重ねた大木が、枝を交え葉を重ね、その下を深い闇にして夜空にすくすくと聳えていた。H公園は一周するとほとんど二里にも達しよう。森に林に丘に池、所々に建物が立っていて、到る所にベンチがあった。四辺は厳重な煉瓦の壁で、壁を蔽って内と外に鬱々と樹木が繁っていた。昼間のあいだに騒ぎつかれて夜は静かな鳥や獣の深い眠りを驚かすのは、近頃|阿弗利加《アフリカ》から送られて来た二匹の牝牡《めすおす》の獅子であった。
 檻《おり》に馴れない沙漠の王は格子の間から空を眺め、初めは悲し気な呻り声、それから次第に高くなり、やがてその声を聞いただけでも気の弱い獣は血を吐いて死んでしまうと云われている雷のような吠え声をあげるのであった。
 その雷のような吠え声がだんだん嘆くような呻きとなり、そしてプッツリ絶えた時、夜は一層深くなり闇が一層濃くなったように思われる。……
 今その声が絶えたばかりで、あたりは死んだように静かであった。
 その時一つの人影が闇の中から産まれたようにどこからともなく現われて正面の横の潜戸《くぐり》の前で、戸に身を寄せて立ち止まった。内部《なか》を窺っているらしい。
 すると忽然潜戸の戸が内の方から開けられて、そこから一人の園丁が上半身を突き出した。
「レザール君かい?」と園丁は闇をすかして声をかけた。
「ラシイヌさんですか? レザールです」闇の中の人影は前へ出た。
「ちょうど時計が鳴ったとこだ。確かに今は午前二時だ……さあすぐ内へはいりたまえ」
 レザールは潜戸《くぐり》から忍び込んだ。忽ち潜戸の戸が閉まる。
 二人は暗い園内をそろそろと先へ歩いて行く。ラシイヌは一言も云わなかった。それが一層レザールには物凄いことに思われた。
 二人はなるたけ木下闇《このしたやみ》の人目にたたない闇の場所を、選《よ》りに選って歩いて行く。
「止まって」
 と突然ラシイヌは鋭い忍び音《ね》で注意した。で、レザールは立ち止まって前方の闇をすかして見た。窓々へ鎧戸《よろいど》を厳重に下ろして、屋内の燈火を遮断した、小柄の洋館《いえ》が立っている。園長の住んでいる官舎らしい。
 闇に馴れた眼をじっと据えてレザールは官舎を注視した。すると意外にも官舎の前の芝生の上に一団の、蠢《うご》めくものの形があった。よくよく見ると人間で、十人に近い人数である。円く芝生に胡坐《あぐら》をかき、額を土へ押しあてて何事か祈ってでもいるらしい。ブツブツといういとも小さい呟きの声が聞こえて来る。祈祷《きとう》の声ででもあるらしい。
 すると突然その中から一人の男が立ち上がった。やや明瞭《はっき》りと云うのを聞けば、それは回教《ふいふいきょう》の祈祷《いのり》であった。
「アラ、アラ、イル、アラ……唯一にして絶対なる吾らの神よ……吾らをして強くあらしめたまえ! 吾らをして敵を殺さしめたまえ! ……何物をも吾らより奪うなく、何物をも吾らに与えたまう神よ!」
 その男は両手を空へ上げ、手をあげたまま腰を曲げ、地面へその手の届くまで、上半身を傾むけた。それから再び腰を延ばし、両手で空を煽ぎ立てた。それからまたも腰を曲げ、地面へ両手を届かせた。そうしては延ばし、そうし
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