躊躇《ちゅうちょ》があろう! 独木舟《まるきぶね》の船尾《とも》へ筏を纜《つな》ぎそれから屋根へ這い上がった。
それから梯子を下ったのである。
下へ下るに従って射し込む日光が薄くなり全く暗黒になってからも尚下へ下りなければならなかった。私はこっそり心の中でおおよその間数を数えながら下へ下へと下りて行った。
「十間、二十間、三十間……」
と、ここまで数えて来た時に梯子は既に尽きていた。それとも知らず私の足は次の桟木を踏もうとしてハッと空間に足を辷らせ真っ逆様に墜落した。
そして気絶をしたのであった。
私の意識が次第次第に恢復するように思われた。一人の老人が私の前に蝋燭《ろうそく》を持って立っている――しかし恐らく幻覚であろう――その老人を囲繞して宝石が無数に輝いている。黄金の兜、黄金の鎧、蝋燭の光に照らされて天上の虹が落ちたかのように燦々奕々《さんさんえきえき》と光を放し香の匂いさえ漂っている。
「何んという美しい幻覚であろう」
私は半分正気付いてこう口の中で呟いた。
「なんという立派な老人であろう――岩窟に住んでいる動物学者のあの老人にそっくりだ……幻覚よ、永く消えないでくれ」
私はまたも呟きながら体を起こそうともがくのであった。
気高い老人が重々しく髯だらけの口を動かした。
「気が付いたかな、張教仁!」
私は辛うじて返辞をした。
「あなたはどなたでございます?」
「わし[#「わし」に傍点]は岩窟の老人じゃ」
「動物学者のご老人?」
「そうだ。そうして人猿国の国王と云ってもよいだろう」
私は四辺を見廻した。何も彼も尊げに光っている向こうの隅には黄金の板、櫃《ひつ》の上には波斯絨毯《ペルシャじゅうたん》。黄金で全身をちりばめられた等身大の仏の像はむきだしに壁に立てかけてある。その仏像の左右の眼には金剛石が嵌められてあって蝋燭の光に反射して菫色《すみれいろ》の光を澪《こぼ》している。
「ここはいったいどこなのです?」
「ここは水底の地下室じゃ!」
「宝物庫でございますな?」
「いかにもさようじゃ。羅布《ロブ》人のな」
「え、羅布《ロブ》人でございますって!」
「回鶻《ウイグル》人と云ってもよい」
「回鶻《ウイグル》人でございますって? ――それでは私はようやくのことで目的をとげたというものだ! 羅布《ロブ》人の宝庫! 羅布《ロブ》人の宝庫!」
「しかしお前が発見《みつ》けるより先に私がいち[#「いち」に傍点]早く見付けていた。危険の多い湖底から沙漠の地下室へ人猿と一緒に宝を移したのもこのわしじゃ」
「それでは渦巻を起こしたのも湖水の水を涸らしたのも皆あなたでございますか?」
老人は黙って微笑した。
「それにしてもあなたはこの宝庫を何故世の中へ発表して用に立てないのでございます?」
「ただわし[#「わし」に傍点]がそれを欲しないからだ。地下には四十の部屋があってあらゆる宝石貴金属が一杯そこに詰まっている。何億あるか何十億あるか、現代の貨幣に換算したらそれこそ大陸の二つや三つは優に買うことが出来るだろう……」
四十四
老人は静かに云いつづけた。
「凄まじいほどの巨財なのじゃ。ところで今日の世界と云えば物質一方の世界ではないか。そういう世界へこれだけの巨財を仮りに提供したとなったら、その財宝の所有争いで国々で戦争さえするであろう。それを私は恐れるのじゃ」
老人はこう云って沈黙した。私には老人のその言葉がいかにも真理に聞こえたのでそれからは何んにも云わなかった。
老人は自分で蝋燭を取って私の前を歩きながら、地下に造られた四十の部屋をいちいち私に見物させた。
お伽《とぎ》の世界にでもあるような幽幻神秘の宝物庫が、私の眼前に展開されて、見て行く私の眼を奪い計り知られぬその価値に私は思わず溜息をした。
私は発見したのである! 探し廻っていたその宝庫を! 数千年前支那の西域|羅布《ロブ》の沙漠に国を建てた回鶻《ウイグル》人の一大国家が、基督《キリスト》教徒に征《せ》められて国家の滅びるその際に南方椰子樹の島に隠した計量を絶した巨億の財を私は今こそ発見《みつ》けたのだ!
老人と一緒に船に乗って私は森林へ帰って来た。そして人猿に守られて老人の岩窟へはいったのである。
こうして再び老人と一緒に岩窟《いわや》で生活するようになった。
老人が彼らに命じたのでもあろう、それ以来私は人猿達に監視されることがなくなった。私は文字通り森林の中を自由自在に歩くことが出来て、老人をこの国の国王とすれば私は副王の位置にあった。
私の生活は安全であり前途は希望《のぞみ》に充ちていた。と云うのは老人が口癖のようにこのように私に語るからであった。
「わしは大変年老いている。わしは間もなく死ぬだろう。そうしたら君こそ
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