という瀬戸際じゃないか。そいつを君にソワ付かれちゃ、誰だって質問《き》かずにゃいられないよ。訊いたからこそ話したのさ。君が進んで自分から、僕に話したんじゃない筈だよ」
こう云うラシイヌの口もとにはさすがに微笑が漂ってはいるが、鋭いその眼には非難の光がギラギラ輝いているのであった。
ダンチョンは次第に首を垂れ、小児《こども》のように頬を赭らめ、いつまでも無言で聞いていたが、この時フッと眼を上げた。その眼にはいかにも困ったような、嘆願の表情が浮かんでいて、それが滑稽で無邪気なので、ラシイヌは思わず笑いかけた。それを危く取り留め彼は厳然と云い渡した。
「それでは君はその別嬪《べっぴん》が、手紙で君に指定した通り、今夜公園の音楽堂へ音楽を聞きに行きたまえ。しかし一人では行かせないよ。もちろん見え隠れではあるけれど、僕も一緒に行くことにしよう。そうして君がその美人を、モデルに頼むことに成功するか、それとも美人が君を捕らえて、逆さに釣るして泥を吐かせるか、恋の争闘を見ることにしよう。こいつはとんだ見世物だよ」
ラシイヌは云って立ち上がった。
「たしか音楽の始まるのは午後八時からだということだね。それまでは君も辛棒して、博士の室へでも行っていて、八時になったら出て行くさ。それまでに僕も僕の用を片付けて置くことにしようかね。もっとも僕の用というのは、街をブラツクことだけれど」
ラシイヌは室を出て行った。それから彼はホテルを出て、県城指して歩いて行った。
十八
あるいは「東洋の紐育《ニュウヨーク》」もしくは「東洋の桑港《サンフランシスコ》」――こう呼ばれている上海《シャンハイ》も、昔ながらの支那街としての県城城内へ足を入れれば、腐敗と臭気と汚穢《おわい》とが、道路《そと》にも屋内《うち》にも充ち満ちていて、鋭い神経を持った人は近寄ることさえ忌み嫌った。
そういう不潔の城内を差してラシイヌは歩いて行くのであった。しかしラシイヌは目的地へすぐに行こうとはしなかった。彼は自分のいる英租界を、黄浦河に沿って悠々と、仏租界の方へ歩いて行った。彼の道順には租界中での一番賑やかな街筋が――すなわち黄浦河の岸上の街《まち》と、蘇州渓の街とが軒を並べ、街路整斉と立っている。街には人が出盛っていた。馬車、自動車は鈴を鳴らし、広い車道を馳《はし》って行く。三層五層の大厦の窓は、悉《ことごと》く扉を開け放され忙しそうに働く店員達の小綺麗な姿が見えている。上海棉花公司とか、広徳泰|軋《れき》花廠とか、難解の文字の金看板が、家々の軒にかかっていて、夕陽にピカピカ光っている。九江路《キウキャンルー》を右に曲がり、福建路《フウキンルー》を行き尽くし、それから初めて仏租界へ、ラシイヌはゆっくり足を入れた。
英租界の繁華に比較しては、仏租界の方はやや寂しく、その代り上品で粋であった。紳士と連れ立った淑女達や、大きな金剛石《ダイヤ》の指輪を飾った俳優じみた青年や、翡翠《ひすい》の帽子を戴いて、靴先に珠玉《たま》をちりばめた貴婦人などの散歩するのに似つかわしい街の姿である。
ラシイヌは静かに歩きながらも、左右に鋭く眼を配って、全身の注意を耳に蒐《あつ》め、ある唄声を聞こうとした。しかし唄声は聞こえない。足音や話し声や笑い声や、器物の動く音などは、行く先々で聞こえてはいたが、聞こうと願う唄はどこからも聞こえては来なかった。ラシイヌは仏租界を歩き尽くし、しばらくそこで躊躇したが、やがてグルリと大迂回をして米租界の中へ進んで行った。
仏租界ほどの品もなく、英租界だけの規律もなく、ただ米租界は紛然として、繁昌[#「繁昌」は底本では「繁晶」]を通り越して騒がしかった。街々を歩いている人々には、印度《インド》人もあれば、土耳古《トルコ》人もある。煙草《たばこ》ばかり吹かしている洪牙利《ハンガリー》人や、顔色の黒いヌビヤ人や、身長《せい》の高くない日本人や、喧嘩早い墨西哥《メキシコ》の商人などが、黄金《かね》の威力に圧迫され、血眼《ちまなこ》になって歩いている。各国の領事館や銀行の立派な建築《たてもの》が街々に並び、倉庫、桟橋、郵便局などが、到る所に並んでいる。上海の本当の持ち主の支那の商人は米租界でも最も狡猾なるあきゅうどとしてどこへ行ってもうよついている。
ラシイヌはゆるゆる歩きながら、左右の光景を眼で眺め、湧き起こる音響を耳で聞き、先へ先へ進んで行った。
しかしやっぱり聞きたいと願う、その唄声は聞こえなかった。こうして彼は米租界をも、失望をもって通り過ぎた。そして今度は足を早めて、いよいよ目的の県城の方へ、彼はズンズン進んで行った。
街《まち》は次第に寂しくなる。そして道路の不潔さは、ラシイヌの眼を顰《ひそ》めさせる。
城内と城外とを距てている城
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