は、催眠術に過ぎないと、このように目星をつけてからは、その方針で進みました。ところがはたしてある晩のこと、金雀子街を歩いていると、貴公子風の支那青年と、土耳古《トルコ》美人とが月に浮かれて、向こうから歩いて来ましたが、二人のうちのどっちかが暗示状態に落ち入っていると、早くも私は見て取ったので、何気なく警告を与えました。それというのも、その貴公子を私が知っていましたからで。するとはたして土耳古《トルコ》美人が、ものの三十歩ほども歩いた頃、例の調子で、例のように、走り出したというものです。驚いて貴公子は追って行く。もちろん私も追って行く。貴公子は中途で倒れましたが私は最後まで追いかけました。するとどうでしょうその美人は、北京《ペキン》中散々駈け廻った後、やっぱり同じ金雀子街へ帰って来たじゃありませんか。そうして、その街の街端れの、陶器工場の廃屋の中へ走り込んだという訳です。私もそこまで行きました。忽ち地上へ穴が開く、地下室へ通う階段がある、それを二人は下りました。すると恐ろしく広い立派な阿片窟へ来たというものです。私はいろいろ調べました。その阿片窟の設計図さえ私は手に入れたというものです。そして阿片窟の経営者が誰であるかを突き止めました。袁更生という男です。そして自分では袁世凱の後身だと云っているのです。そして世界の各国へ阿片窟の支部を設立し、世界中の人間を堕落させて、そして自分が全世界を征服するのだなどと高言して、愚民を騙《たぶら》かしていたそうです。それほど大がかりの阿片窟が、どうして今日まで知れなかったかというに阿片窟へ出入りする人間を、よく吟味して加入させたからで、今云った首領の袁更生が例の催眠術で誘拐して来ても、途中でその人間の強弱を試し、臆病な奴はそのまま途中で、自己催眠で自殺させ、街路で容捨なく捨ててしまい、大胆な者だけを連れて来たので、秘密が保たれていたのです」
 ラシイヌ探偵は云ってしまうと、葉巻を出して火を点けて、さも旨そうにふかし出した。
「残念な事には」とラシイヌはちょっと片眼をひそめたが、「かんじんの首領の袁更生だけを、まんまと取り逃がしてしまったので、こいつは私の失敗でした」
 こう云ってニヤリと苦笑した。

    第四回 上海夜話


        十七

 上海《シャンハイ》、英租界の大道路、南京路《ナンキンルー》の中央《なかほど》のイングランド旅館《ホテル》の一室で、ラシイヌ探偵と彼の友の「描かざる画家」のダンチョンと葉巻《シガー》を吹かしながら話している。
「……ほほう、そんなに美人かね。ところで君はその美人をモデルにしたいとでも云うのかね。モデルにするのもいいけれど、これまでの君の態度を見れば、どんなに良いモデルがあったところで、『描かざる画家』ダンチョンたる君は、それを描かないんだからつまらないよ。それとも今度からは描くのかね?」
「それはもちろん描きますとも。あんな素晴らしい美人がですね、モデル台の上へ立ってくれたら、自然とブラシだって動きますよ」
「美人美人と云うけれど、君の言葉を聞いていれば、美人は面紗《ヴェール》に隠れていて、顔を見せないって云うじゃないか」
「顔は一度も見ませんけれど、美人であるということはその体付きで解ります。飛び離れて優秀《すぐれ》たあの体には、飛び離れて美しい容貌が着いていなければ嘘と云うものですよ。美人に相違ありませんな」
「なるほど、君は画家だから、そういうことには詳しいだろう。ところで素晴らしいその美人が君に手紙を手渡したというが、少し変だとは思わないかね?」
「無論変だと思います。つまり変だと思えばこそ、あなたにお話したのですが……」
「君の様子をおかしいと見て僕が質問したればこそ、君はその事を打ち明けたので、そうでなければ、君は黙って、美人の手紙に誘惑されて今夜一人で公園の音楽堂へ行ったに相違ないよ。全く今日の君の様子は、変梃《へんてこ》と云わざるを得なかったよ。蛮的の君がお洒落《しゃれ》をする。頭髪《かみ》を香油で撫でつけるやら、ハンカチへ香水をしめすやら、そしてむやみにソワソワして腕時計ばかり気にしている。正気の沙汰じゃなかったね……平素《ふだん》の日ならそれでもいいさ。君も充分知っている通り、埋もれた宝庫《たから》を尋ねようと、西域の沙漠を横断して支那の首府まで来て見れば、一行での一番大事な人のマハラヤナ博士が風土病にかかって北京《ペキン》から一歩も出ることが出来ず、それの看病をしているうちに、北京警務庁に頼まれて、袁更生の事件に関係して、むだに日数を費してしまった。それでもようやく博士の病気が曲がりなりにも癒ったので、陸路を上海《シャンハイ》まで来たところで博士がまたも悪くなった。それもようやく恢復したので、明日はいよいよ南洋を指して出帆
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