った狼じゃ。で私は素晴らしい幸運を他人のお前へ渡すのじゃ」
不思議な老人はこう云うと縁からスラリと立ち上がった。そして私へは構わずに亭《ちん》を離れて歩き出した。私はしばらく呆気《あっけ》にとられ老人の姿を見送っていたが気がついて背後《うしろ》から声をかけた。
「ご老人!」と私は忍び音で、「お名前をおきかせくださいまし、いったいどなたでございます?」
すると老人は振り返ったが、
「この国で一番不幸な男! それがすなわちこの私《わし》じゃ」
「この国で一番不幸な男? それがご老人だとおっしゃいますか?」
「世間の人達は反対にこの国で一番|幸福者《しあわせもの》がこの私《わし》じゃなどと云っている」
「どうも私にはわかりません……」私は老人を見守った。
「ここにある宮殿や庭園はみんなこの私《わし》の所有物《もちもの》じゃ……四百余州の天も地も今では私の自由になる。私はそういう人間じゃ」
私は尚も老人をおりから雲を出た月に照らして、じっと仔細に見廻したが、吃驚《びっくり》して飛び上がった。
「あなたは! そうだ! わかりました!」
「わしは寂しい人間だよ! 一人の味方もない人間だよ」
老人は低く呟いたがそのまま静かに歩き出した。そして浮き橋を渡って行った。私はその後を見送った。いつまでもいつまでも見送った。民国の仇の後ろ姿、父母の敵の後ろ姿。袁世凱の後ろ姿を手を拱《こまぬ》いて見送った。何故飛びかかって行かなかったのか? 手箱を貰った恩義のためか? いいや決してそうではない。総統の威厳に打たれたからか? 何んの何んのその反対だ! 私は全く袁世凱の寂しい姿に打たれたのであった。
……私は手箱を取り上げた。鉄で造られた粗末な手箱! 私は月光に照らして見た。何んの奇もなく変もないけれども、ほんとに奇もなく変もないこの貧弱の手箱から私の運命を左右するような世にも奇怪な羊皮紙が忽然として出て来ようとは……
果然、その夜から間もないある日、袁世凱の突然の死が、世界中の新聞に発表されて世の中の人を駭《おどろ》かせた。あまり突然であったため、世人は死因に疑いを抱き暗殺ではなかろうかと噂した。暗殺か自殺か自然の死か私だけには解っていた。彼は寂しさに堪えられず寂しさに食われて死んだのだ。
その後私はどうしたかというに、孫文先生の旗下を離れ一旦|自家《いえ》へ立ち帰って妹や婆やと
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