犬神娘
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)午《うま》の刻
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)新関白|近衛《このえ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]して
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一
安政五年九月十日の、午《うま》の刻のことでございますが、老女村岡様にご案内され、新関白|近衛《このえ》様の裏門から、ご上人《しょうにん》様がご発足なされました際にも、私はお附き添いしておりました。(と、洛東清水寺|成就院《じょうじゅいん》の住職、勤王僧|月照《げっしょう》の忠実の使僕《しもべ》、大槻《おおつき》重助は物語った)さて裏門から出て見ますると、その門際《もんぎわ》に顔見知りの、西郷吉之助様(後の隆盛)が立っておられました。
「吉之助様、何分ともよろしく」
「村岡様、大丈夫でごわす」
と、二人のお方は言葉すくなに、そのようにご挨拶なさいました。その間ご上人様にはただ無言で、雲の裏に真鍮《しんちゅう》のような厭な色をして、茫《ぼう》とかかっている月を見上げ、物思いにふけっておられました。でもいよいよお別れとなって、
「ご上人様、おすこやかに」
と、こう村岡様がおっしゃいますと、
「お局《つぼね》様、あなたにもご無事で。……が、あるいは、これが今生の……」
と、たいへん寂しいお言葉つきで、そうご上人様は仰せらました。
行き過ぎてから振り返って見ましたところ、まだ村岡のお局《つぼね》様には、同じところに佇《たたず》んで、こなたを見送っておられました。
それから私たち三人の者は、ご上人様のご懇意の檀那《だんな》で、御谷町《おたにまち》三条上ルに住居しておられる、竹原好兵衛様というお方のお家へ、落ち着きましてございます。
すると有村|俊斎《しゅんさい》様が、間もなく訪ねて参られました。
吉之助様と同じように、薩州様のご藩士で、勤王討幕の志士のお一人で、吉之助様の同士なのでございます。
「さて上人の扮装《みなり》だが、何んとやつしたらよかろうのう」
と吉之助様はこうおっしゃって、人並より大きい切れ長の眼を、ご上人様へ据えられました。
すると側《わき》にいた俊斎様が、
「竹の笠に墨染めの腰衣《こしごろも》、乞食坊主にやつしたらどうかな」
と、眉の迫った精悍な顔へ、こともなげの微笑を浮かべながら、そう吉之助様へおっしゃいました。
「それには上人は立派すぎるよ。神々《こうごう》しいほど気高いからのう」
「なるほど、優しくて婦人のようでもあるし」
「高僧の姿そのままで、駕籠に乗って行くが無難じゃろう」
「途中で疑がわれて身分を問われたら?」
「薩摩の出家じゃと申せばよか」
「それにしては言葉がちとな」
「師の坊は幼少より京都におわし、故郷《くに》に帰らねばとこう申せばよか」
「なるほど、上人の京訛《きょうなま》りも、そう云えば疑がいなくなるじゃろう。それでもとやかく申す奴があったら、この有村たたっ切る」
「痴言《たわごと》申すな!」
と吉之助様が、その瞬間に恐ろしいお声で、こう俊斎様を叱咤なされました。
「月照上人は近衛殿から、俺《おい》が懇篤《こんとく》に頼まれたお方じゃ! それに俺《おい》には義兄弟じゃ! 安全の場所へおかくまいするまでは、上人の身辺で荒々しい所業など、どうあろうと起こしてはならぬ! それを何んじゃ斬るの突くのと! もう汝《おはん》の力など借りぬ! 俺《おい》一人で送って行く! 帰れ帰れ、汝《おはん》帰れ!」
力士陣幕に似ているといわれる、肥えた大きなお躰を、いつものんびりと寛《ゆる》がせて、子供に懐《なつ》かれるような優しいお顔を、たえず長閑《のどか》そうに微笑させておられる、そういう吉之助様ではありましたが、たまたまお怒りになりますると、雷《らい》が落ちたと申しましょうか、霹靂《へきれき》が轟《とどろ》いたと申しましょうか、恐ろしいありさまでございました。
(いったいどうなることだろう?)と、私は小さくなって見ていました。
でも何んともなりませんでした。吉之助様に対しますると、弟のように柔順な俊斎様が、
「これは俺《おい》がよくなかった。軽卒な真似など決してせぬ。帰れといわれて帰られるものではなし、一緒に上人を送らせてくれ」
と、こう穏《おだや》かに詫びましたので、吉之助様の怒りも解け、
「俺《おい》も少し云い過ぎたようじゃ」
と、気の毒そうに云ったからでした。
この間ご上人様は何もおっしゃらず、透きとおるほど白いお顔の色、和尚様《おしょうさま》と申そうよりも、尼君様と申しました方が、いっそう似
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