されたのでしょう。女の手にしても珍らしいほどの、白い細い柔かい、指の形などのいかにも上品な――とんと形容しようもないほどに、お美しいお手でございました。
 と、どうでしょうそのご上人様の手先を、甲斐絹《かいき》[#ルビの「かいき」は底本では「かひき」]の手甲の女の手が、ヒョイと握ったではございませんか。
(あッ)と私が思いましたとたんに、吉之助様が腰を上げました。手を刀の柄《つか》へかけながら。

        三

 その次に起こった出来事といえば、ご上人様が手を引かれたことと、それについて女が半身を泳がせ、駕籠の扉へもたれかかり、扉の間から顔を差し入れ、ご上人様のお顔を見たらしいことと、その拍子に湯呑みが盆から落ちて、地面へ茶をこぼしたことでした。
 吉之助様は門口まで突き進んでいました。
 でももうその時にはその女は、湯呑みと盆とを両手に持って、こちらへ引っ返して来ていました。
「とんだ粗相をしたってことさ」
 土間へはいると伝法な口調で、でもいくらか恥じらった様子で、こうその女は申しましたっけ。
「妾《わたし》ア湯呑みをひっくりかえしてしまったよ……。お給仕されることには慣れているけれど、することには慣れていないんだねえ。……姐《ねえ》さんあんたから上げておくれよ」
 で、わたしはホッといたしまして、胸をなでおろしましてございますが、不意にその時わたしの横手で、
「おいどうだった?」
 という男の声が、囁《ささや》くように聞こえましたので、そっとその方へ眼をやって見ました。
 四十そこそこらしい旅姿の男が、ご上人様へお茶をあげた例の女の側《わき》に、佇《たたず》んでいるではございませんか。合羽《かっぱ》を着、道中差しを差し、両手を袖に入れている恰好《かっこう》は、博徒か道中師かといいたげで、厭な感じのする男でした。三白眼であるのも不快でした。
「駕籠の中のお方はご婦人だよ」
 これが女の返事でした。

 ご上人様を京都から抜け出させて、薩摩へ落とすよう計らいましたのは、近衛殿下なのでございます。井伊様がご大老にお成りになられるや、梅田源次郎様や池内大学様や、山本槇太郎様というような、勤王の志士の方々を、追求して捕縛なさいまして、今後も捕縛の手をゆるめそうもなく、そこで以前から勤王僧として、公卿《くげ》と武家との仲を斡旋《あっせん》したり、禁裡様から水戸藩へ下されましたところの、密勅《みっちょく》の写しを手に入れて、吉之助様のお手へお渡しになったりして、国事にご奔走なさいましたところの、ご上人様のご身辺も危険になられました。それを近衛様がご心配あそばされ、吉之助様にお頼みになり、ご上人様をどこへなと安全なところへ、お隠匿《かくま》いなさろうとなされましたので。最初はご上人様の知己《みより》の多い、奈良へでもということでございましたが、意外に捕吏の追求が烈しいので、薩摩へということになったのでございます。
 竹田街道の立場茶屋《たてばぢゃや》の変事も、何事もなく済みまして、無事わたしたちは伏見《ふしみ》に着きました。それから船で淀川を下り、夕刻大坂の八|軒屋《けんや》に着き、上仲仕《かみなかし》の幸助という男の家へ、ひとまず宿《やど》をとりました。わたしたちが大坂におりましたのは、二十四日まででありましたが、この間に鵜飼《うがい》吉左衛門様や、そのご子息の幸吉様や、鷹司《たかつかさ》家諸太夫の小林|民部輔《みんぶのすけ》様や、同家のお侍|兼田《かねだ》伊織様などという、勤王の方々が幕府の手により、続々捕縛されまして、ご上人様追捕の手も厳しくなったという、そういう情報がはいりましたので、これはうかうかしてはいられないというので、その夜のうちに薩摩へ向けて立とうと、土佐堀の薩州邸下から小倉船に乗り、漕ぎ出すことにいたしました。一行はご上人様と吉之助様と、俊斎様と私とのほかに、薩州ご藩士の北条右門様との、この五人でございまして、三人のお方が駕籠を警護し、私だけが半町ほど先に立って、あたりの様子をうかがいながら、纜《もや》ってある船の方へ行きました。おりから晴れた星月夜で、河岸の柳が川風に靡《なび》いて、女が裾でも乱しているように、乱れがわしく見えておりましたっけ。と、一|木《ぼく》の柳の木の陰から、お高祖頭巾《こそずきん》をかぶった一人の女が、不意に姿をあらわしまして、わたしの方へ歩いてまいりましたが、
「重助さん、ご苦労だねえ」と、こう云ったではありませんか。
 わたしはハッとなりドキリとして、早速には言葉も出ませんでした。
「あのお方の手、綺麗だねえ」
「…………」
「綺麗な手のお方をお送りして、重助さん遠くへ行くんでしょう」
「…………」
「だからご苦労と云っているんだよ」
「女ってもの変なものでねえ、男の何んでもないち
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