い」
それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
しばらくの間寂然としていた。
やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。
この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
こう思いながら歩いていた。
何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
長い小高い堤があった。
よじ上って歩いて行った。
向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
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