云いすてるとペッと唾を吐き、グルリと猪之松へ背中を向け、街道を赤尾村の方へ歩き出した。
「おい赤尾の、ちょっと待ちな」
 怒った猪之松の声がした。
「用か」と振り返った林蔵の前に、猪之松の抜いた長脇差が、白く真直に突きつけられていた。
「や、とうとう、それでも抜いたか!」
「そうさ、それまでこの猪之松に、真剣勝負を望むなら、俺も男だ引きはしねえ。気持よく相手になろうじゃねえか。……やいやい手前達……」と振返り、乾児達へ声をかけた。
「赤尾のと俺との真剣勝負、手を出しちゃアならねえぞ。もし俺が殺されたら、そうさな骨だけは拾ってくれ。……それから水品先生もだ……」
 こう云うと猪之松は編笠を冠った、浪人武士の方へ顔を向け、
「貴郎《あなた》も助太刀などなされずに、最後まで見ていておくんなせえ」
「心得てござる」と云いながら、その武士はゆるゆると編笠を脱いだ。
 鴫澤庄右衛門を討って取り、甲州へ一旦落ち延びたが、主水が敵討にやって来るであろう、燈台かえって下暗し、それに武州には甲州以上に、親しくしていた博徒があり、身上の治まらぬところから、破門はされたが剣道の師匠、逸見多四郎先生も居られる、かたがた都合がよかろうと、甲州から武州へ引っ返し、以前わけても世話になった高萩村の猪之松方に、賭場防として身を寄せた。それは水品陣十郎であった。
 脱いだ編笠を手に提げて、その陣十郎は立木に背をもたせ、
「お貸元同志の一騎討ち、またと見られぬ真剣勝負、とく[#「とく」に傍点]と拝見いたしましょう。が、もし高萩の親分にもしものことがございましたら、きっと陣十郎林蔵殿を、生かしてお帰しはいたしませぬ」
 云い云い気味悪く白い眼で笑った。


 猪之松が林蔵へ声をかけた。
「さあ乾児どもへも云い聞かせた。横から手出しはさせねえつもりだ。二人だけの太刀打ち勝負、遠慮なくどこからでも切り込んで来なせえ!」
 ピタリと正眼に太刀を構えた。
「さすがは高萩の見上げた態度、それでこそ男だ気持がいいや。……行くぞ――ッ」と叫ぶと赤尾の林蔵は、脇差を抜くとこれも正眼に、ピタリとばかりに引っ構えた。
 新影流と甲源一刀流、相正眼の厳重の構え、水も洩らさぬ身の固め、しばらくの間は位取ったばかりで身動き一つしなかった。
 と、この時上尾の宿から、旅仕度をした一人の武士と、その連れらしい一人の女とが、差し出
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