から手を出し、横取りしたというのではない。向こうからお膳を据えたので、林蔵との関係は知っていたが、そこは売物買物だ。こだわらずに膳を食べたまでだ。とはいえ林蔵の身になってみれば、気持のいいことはあるまいよ。……そんなお山のことばかりでなく、従来縄張りの争いから、気持の悪いことばかりが、双方の間にあったはずだ。そこで林蔵はその葛藤を、今日一気に片付けようと、てい[#「てい」に傍点]のいい真剣の試合に事寄せ、俺を討取ろうとするのだな)
ただし猪之松は昨夜山城屋が、林蔵に戸閉めをくれた上、馬大尽が来ているなどと、嘘を云ったというようなことは、夢にも知ってはいなかった。というのは山城屋の若衆の、それは勝手のあつかいだったからで。猪之松はあの晩お山の頼みで、総仕舞いをしてやったばかりなのであった。
「どっちみち何時《いつ》かは俺と林蔵とは、命の遣り取りをしなければならねえ、そこ迄の事情に逼っている。と云ったところでこんな往来で、しかもこんな朝っぱらに、試合などに事寄せられて、勝負をするのは気色が悪い、ここは一先ず避けることにしよう」
林蔵よりは年長であり、思慮も熟している猪之松だったので、そう腹を定めると笑顔を作って云った。
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「いかにも俺は逸見《へんみ》先生から、剣術を仕込まれてはいるけれど、聞けばどうしてお前さんこそ、剣道にかけては鬼神と呼ばれる、秋山要介先生から、極意を授かっているとのこと。とても俺など敵いそうもない。まあまあ試合はお預けとしようよ」
「それじゃア何かな……」と林蔵は、少し急き込み進み出た。
「勝負はしねえとこういうのか?」
「そうさ、勝負は、いずれその中、盆蓙《ぼんござ》の上でするとしよう」
「ほほうそれじゃア博奕打は、盆蓙の上で勝ちさえすりゃア真剣勝負には及ばねえと、こうお前さんは云いなさるのか」
「まあそういったところだろう。無職渡世の俺らには、何より賽コロの勝負が大事、刃物三昧は二の次さ」
猪之松は冷やかに云い放し、口をゆがめて嘲るように笑った。
林蔵はいよいよ急き立ったが、グッと抑えてこれも嘲笑し、
「そうかお前さんがそういうふうなら、真剣勝負は止めにしよう。がその代り今日これから、高萩の猪之松は渡世に似合わず、刃物を恐れる卑怯者、赤尾林蔵の手並に怯え真剣勝負を拒断《ことわ》ったわと、関東一円触れ廻っても、決して苦情は云うまいぞよ」
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