の屋敷に、滞在いたして居りましたところ……」
「これはこれは不思議なことで、拙者も井上嘉門殿の屋敷に滞在いたして居りましたので……」
「や、さようで、一向存ぜず、彼の地にて御面会いたすこと出来ず、残念至極に存じ申す」
「しかるに今回の騒動! そこで引揚げて参りましたので」
「実は拙者も同様でござる」
 この時嘉門は駕籠から出て、改めて要介へ挨拶をした。
「ここに居りましても致し方ござらぬ、ともかくも福島まで引揚げましょう」
 こう多四郎が云ったので、一同それに同意した。

 一同がこの地から立ち去った後は、またこの地はひとしきり、深い林と月光との、無人の静かな境地となっていた。
 しかし岩陰には陣十郎が負傷に苦しんで呻いていた。
 大岩の陰にいたために、多四郎にも要介にも見あらわされず、そのことは幸福に感じられたが、お妻や源女を見かけながら、どうにもすることが出来なかったことは、彼には残念に思われた。
「ここに居ても仕方がない」
 こう思って彼は立ち上った。
「痛い! 痛い! 痛い!」と声をあげ、陣十郎はすぐに仆れ、右の足の膝の辺りを抑えた。
「あッ……膝の骨が砕けて居るわ」

 やがて秋が訪れて来た。
 御三家の筆頭尾張家の城下、名古屋の町にも桜の葉などが風に誘われて散るようになった。
 この頃知行一万石、石河原《いしかわら》東市正のお屋敷において月見の宴が催され、家中の重臣や若侍が、そのお屋敷に招かれていた。
 竹腰但馬、渡辺半左衛門、平岩|図書《ずしょ》、成瀬|監物《けんもつ》、等々の高禄の武士たちは、主人東市正と同席し、まことに上品におとなしく昔話などに興じていたが、若侍たちは若侍たちで、少し離れた別の座敷であたかも無礼講の有様で、高笑、放談、自慢話――女の話、妖怪変化の話、勝負事の話などに興じていた。
 と佐伯勘六という二十八九歳の侍が、
「辻斬の噂をお聞きかな」と、一座を見廻して云い出した。

月見の宴で


「辻斬の噂、どんな辻斬で?」と前田主膳という武士が訊いた。
「撞木杖をついた跛者《びっこ》の武士が辻斬りをするということで厶《ござ》るが」
「その噂なら存じて居ります」
「不思議な太刀使いをするそうで」
「こうヒョイと車に返し、すぐにドッと胴輪切りにかける――ということでありますそうで」
 この話はこれで終ってしまった。
 盃が廻り銚子が運ばれ、
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