」と呻く人間の声が、どこからともなく聞こえてきた。
恩讐集合
1
(はてな?)と林蔵は不審を打った。
(二人の他に人はいないと思ったのに、人の呻き声が聞こえるとは)
こう注意が外れたので、躰の構えも自ずと崩れた。
そこを狙って猪之松が、疾風迅雷、胴へ斬り込んだ。
「どっこい!」と喚くと林蔵は、一髪の間に飛退いて、姿勢を整え構えを正した。
もう寸分の隙もない。
二人は互いに呼吸を計り、その間隔《あいだ》を一間とへだて、睨み合って動かなかった。
と、又も呻き声が聞こえた。
(おや?)と不審を打ったのは、今度は高萩の猪之松で、これも注意が外れたために、自ずと構えに隙が出来た。
(得たり!)とばかり得意の諸手突で、林蔵は征矢《そや》のように突進した。
はじめて鏘然と太刀音がしたが、これは猪之松が林蔵の刀を、左に払って右へ反《かわ》したからで、太刀音のした次の瞬間には、二人の位置が少し移ったばかりで、構えは依然として中段と中段、もう静まり返っていた。
それにしても呻き声はどこから来るのであろう?
二人から数間離れた位置に、薮と灌木とに覆われて、一個の大岩がころがっていたが、その陰に一人の武士が仆れてい、その武士から呻き声は来るのであった。
蒼い月光に照らされて、乱れた髪、はだかった衣裳、傷付いた手足のその武士が、水品《みずしな》陣十郎だということが見てとられた。
嘉門の領地の動乱から、命からがら遁れ出て、ようやくここまで歩いて来たところ、手足の負傷、心の疲労から、昏倒してしまった彼であった。
岩のむこうで林蔵と猪之松とが、刀を交し戦っているので、目つかっては一大事、声を立てては不可《いけ》ないと思いながら、つい呻き声を上げる彼でもあった。
嘉門の領地から遁れ出たものは、相当|夥《おびただ》しい数と見え、この一角から遥か離れた、巣山《すやま》や明山《あきやま》の中腹を、福島の方へ行くらしい、たいまつ[#「たいまつ」に傍点]の火が点々と見えた。
(どうして林蔵と猪之松とが、こんな所で斬り合っているのか?)
勿論陣十郎には合点いかなかったが、そういうことを突詰めて考え込むほど、彼の気持は冷静でなく、彼の躰は健康でなかった。
(それにしても井上嘉門の領地での、不思議な怪奇な事件の起伏! 何と云ったらいいだろう?)
悪党の彼ではあったけれど、このことを思
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