云い源女は右を指さしたり、左を指さしたりした。

 土塀を乗り越えた二人の武士、それは主水と陣十郎とであった。鳥居峠から駕籠に乗り、薮原から山へかかり、この日この屋敷へ来た二人であった。
 彼等二人の主たる目的は、井上嘉門に攫《さら》われた澄江を、至急に取り返すことにあった。
 遅れてもしも澄江の躰に――その貞操に傷でもついたら、取り返しのつかぬことになる。
 そこでこの屋敷へ着くや否や、負傷の躰も意に介せず、陣十郎は陣十郎で、その奪還の策を講じ、主水は主水で策を講じたが、これと云って妙案も浮かんで来ず、こうなっては仕方がない、嘉門の主屋へ忍び込み、力に訴えて取り返そうと、さてこそ揃って忍び込んだのであった。
 忍び込んで見てこの主屋だけでも洵《まこと》に広大であることに、驚かざるを得なかった。
 百年二百年経っているであろうと、そう思われるような巨木が矗々《すくすく》と、主屋の周囲に聳えていて、月の光を全く遮り、四辺《あたり》を真の闇にしてい、ほんの僅かの光の縞を、木間からこぼしているばかりであった。ところどころに石燈籠が道標《みちしるべ》のように立っていて、それがそれのある四辺だけをぽっと明るくしているばかりであった。
 主屋の建物はそういう構えの、遥か向こうの中央にあったが、勿論雨戸で鎧われているので、燈火など一筋も漏れて来なかった。
 と、拍子木の音がした。
 夜廻りが廻って来たらしい。
 二人は木立の陰へ隠れた。
 拍子木の音は近付いて来た。
 と、不意に足を止めたが、
「これ、誰じゃ、そこにいるのは?」
 一踴!
「わッ」
 一揮!
 寂寥!
「おい、陣十郎切ったのか?」
「いや峯打ちだ。殺してはうるさい」


 なお二人は先へ進んで行った。
 と、行手から男女らしいものが、話しながら来る気勢《けはい》がした。
 そこで二人は木陰へかくれた。
 男女の声は近寄って来たが、数間へだてた地点まで来ると、
「其方《そなた》あちらへ……静かにしておいで。……ちと変だ……何者かが……」
 こういう男の声がして、しばらくそれからヒッソリしていたが、やがておちついた歩き方で、歩み寄って来る気勢がし、
「これ誰じゃ、そこに居るのは?」と咎める威厳のある声がした。
 主水も陣十郎も物云わず、息を殺してじっと[#「じっと」に傍点]していた。
「賊か、それとも……賊であろう
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