しくも憐れにも思われて、断行することが出来なかった。
(夜の風にでも吹かれて来よう)
 で、こっそりと宿を抜け出したのである。


 足にまつわる露の草を、踏分け踏分け陣十郎は歩いた。
 街道を馬の列が通って行く。
 それを避けて草野を歩いて行くのである。
(ガーッとどいつかを叩っ切ったら、この心も少しはおちつくかもしれない)
 そんなこともふと思われた。
(ウロウロ女でも通って見ろ)
 そんな兇暴の考えも、チラチラ彼の心の中に燃えた。
 と、そういう彼の希望に、応じようがために出て来たかのように、行手から女が星の光で知れる、小粋の姿を取り乱し、走ったり止まったりよろけ[#「よろけ」に傍点]たりして、こっちへ歩いて来るのが見られた。
(しめた!)と一刹那陣十郎は思った。
(宿の女か、旅の者か、そんなことはどうでもいい、来かかったのが女の不運! ……)
 で、素早く木陰に隠れた。
 その女はそれとも知らぬか、よろめくような足どりで、その前を通って行き過ぎようとした。
 不意に躍り出た陣十郎、物をも云わず背後《うしろ》の方から……
「あッ」
 不意の事だったので、女は驚きの声をあげたが、……
 しかし次の瞬間に、二人はパーッと左右へ別れた。
「貴様はお妻!」
「陣十郎様か!」
 サーッとお妻は逃げだした。
「待て!」
 刀を抜いて追っかけた。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦となり、共住居《ともずまい》から旅に出た。そうなってからはお妻のことは、ほとんど陣十郎の心になかった。
 ところが意外にもこんな事情の下に、あさましいお妻とぶつかった。

高原狂乱


 仆れて、
「人殺シ――ッ」
 だが飛び起き、
「どなたか助けて――ッ」と走り出した。
 そのお妻をなお追いかけ、周章《あわて》たために不覚至極にも、切り損った自分を恥じ恥じ、
「逃げようとて逃がそうや! くたばれ、汝《おのれ》、毒婦、毒婦!」
 陣十郎は執念《しうね》く追った。
 仆れつ、飛び起きつ、刀を避け、お妻は走り走ったが、ようやく街道へ出ることが出来た。
 馬、博労、提灯、松明――馬市へ向かう行列が、街道を埋めて通っていた。
 そこへ駈け込んだ女|邯鄲師《かんたんし》のお妻、
「助けて――ッ、皆様、助けて!」
「どうしたどうした?」
「若い女だ!」
 博労達は騒ぎ立った。
「狂人《きちがい》が妾《わたし》を手籠め
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