を撫でながら云った。
「源女殿、要介じゃ。いつもの発作が起こられたか」
 そう云った声が通じたと見える、源女は顔を上げて要介を見たが、
「先生!」とやにわに縋りついた。
「陣十郎が! 水品陣十郎が!」
「陣十郎が? どうなされた?」
「桟敷にいました! 妾《わたし》につき纏い!」
「…………」
 要介の顔色もにわかに変わった。
「彼、悪鬼、江戸まで来たか!」
「先生!」
「大丈夫」と要介は云った、
「ついて居る、わし[#「わし」に傍点]が、大丈夫じゃ」
「はい……先生! ……でも妾は! ……恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい!」
「自分で自分を苦しめてはいけない。……自分で自分を恐れさせてはいけない。……秋山要介が付いて居る」

剣鬼と剣聖


 俺の長くいる場所ではない、こう思って浪之助がその部屋を出たのは、それから間もなくのことであった。
 書割や大道具の積んである間を、裏木戸の方へ歩いて行った。
 と、何かなしにゾッとした。
 で四辺《あたり》を見廻して見た。
 書割が積んであるその横手の、薄暗い一所に水品陣十郎が、刺すような眼をしてこちらを見ていた。
「あ」と浪之助は自分ながら馬鹿な、と云うよりも臆病千万な、恐怖に似たような声をあげ、足を釘づけにしてしまった。
 陣十郎という男の身の周囲《まわり》を、殺気といおうか妖気といおうか、陰森としたものが取り巻いていて近寄るものを萎縮させる。
 ――そんなように一瞬思われもした。
(馬鹿な)と自分で自分を嘲けり、浪之助は足を運んだ。
 とはいえ陣十郎の前を通る時も、通り過ぎた時も恐ろしかった、不意に切り付けられはしないだろうかと、そんなように思われてならなかった[#「ならなかった」は底本では「なからなかった」]。
 その浪之助が小石川富坂町の、自分の屋敷へ戻ろうとして、お茶の水の辺りを歩いていたのは、初夜をとうに過ごしていた頃で、源女《げんじょ》の小屋を出ても気にかかることや、愉快でないことが心にあったので、その心を紛らそうとして、贔屓にしている小料理屋で、時刻を過ごしたからであった。
 お組《くみ》はどうしたというのだろう? 病気には相違なさそうだが、何という変な病気なんだろう。秋山要介というような、余りにも有名な人物と、非常に親しくしているようだが、どこでどうしてそうなったのか? 水品陣十郎という悪鬼のような男、あの
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