が、さながら水でも引くように、左り後ろへ斜めに引かれた。
誘いの隙に相違なかった。
それに老武士は乗ったらしい。
一足踏み出すと真っ向へ下ろした。
壮年武士は身を翻えしたが、横面を払うと見せて、無類の悪剣、老武士の痩せた細い足を、打ったら折れるに相違ない、それと知っていてその足を……打とうとしたきわどい[#「きわどい」に傍点]一刹那に、
「あれ、お父《とう》様」という女の声が、息詰まるように聞こえてきた。
正面に立っている屋敷の縁《えん》に、十八九の娘が立っていた。
跣足《はだし》でその娘が駈け寄って来たのと、老武士が木剣を閃《ひら》めかせたのと、壮年武士が「参った」と叫び、構えていた木剣をダラリと下げ、苦笑いをして右の腕を、左の掌で揉んだのとが、その次に起こった出来事であった。
浪之助も塀の節穴越しに、苦笑せざるを得なかった。
(若い武士が打たれるはずはない。わざと勝を譲ったんだ)
そう思わざるを得なかった。
浪之助は娘を見た。
柘榴《ざくろ》の蕾を想わせるような、紅《あか》い小さな唇が、娘を初々しく気高くしていた。
2
「何だそのような未熟の腕でいながら、傲慢らしく振舞うとは」
こう老武士の窘《たしな》めるような声が、浪之助の耳へ聞こえてきたので、老武士の方へ眼を移して見た。
娘を横手へ立たせたまま、壮年武士と向かい合い、老武士は説いているのであった。
「たとえどのような伎倆《うで》があろうと、世間には名人達人がある、上越す者がどれほどでもある、増長慢になってはいけないのう」
こう云った時には老武士の声は、穏やかになり親切そうになり、顔からも怒りがなくなっていた。
「第一わしのようなこんな老人に、もろく負けるようなそんな伎倆では、自慢しようも出来ないではないか。のう澄江《すみえ》、そうであろうがな」
「まあお父様そのようなこと……もうよろしいではござりませぬか……でも陣十郎様のお伎倆《うでまえ》は、お立派のように存ぜられますわ」
藤と菖蒲《あやめ》をとりあわせた、長い袂の単衣《ひとえ》が似合って、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけて[#「※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけて」は底本では「臈《ろう》たけて」]さえ見えるその娘は、とりなすようにそういうように云い
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