の勝手元へ姿を現わしたのは、浮かない顔をした陣十郎であった。
「これはいらっしゃい水品先生、こんなに遅くどうしたんですい?」
 こう云って声をかけたのは、猪之松にとっては一の乾分――上尾街道で浪之助などに追われ、逃げ廻る弱者の峯吉ではなく――角力上り閂《かんぬき》峰吉であった。
「遅いか早いかそんなことは知らぬ。陽気だな、これは結構」どこかで飲んで来たらしく、陣十郎は酔っていたが、凄い据わった血走った眼で、ジロジロ四辺《あたり》を見廻わしながら、上ろうともせず随分邪魔な、上框《あがりかまち》へデンと腰かけ、片足を膝の上へヒョイとのっけ、楊子で前歯をせせり出した。


(ご機嫌が悪いぞ、あぶないあぶない)
 酒癖の悪いのを承知の一同、あぶないあぶないと警戒するように、互いに顔を見合わせたが、こんな時にはご自慢の情婦《おんな》――お妻を褒めるに越したことはないと、唐子の音吉というお先ッ走りの乾児が、
「姐御、どっこい、奥様だったっけ、奥様お見えになりませんが、一体全体どうしたんで、こんな時にこそご出張を願って、あの綺麗で粋なご様子で、お座敷の方を手伝っていただき、愛嬌を振り蒔いていただけば、嘉門様だって大喜び、親分だって大恭悦、ということになるんですがねえ。それが昼から夜にかけて、一度もお見えにならねえなんて……一体全体奥様は……」
「奥様? ふん、誰のことだ!」
 ギラリと陣十郎は音吉を睨み、
「奥様、ふふん、どいつのことだ!」
「どいつッて、そりゃ、お妻さんのこと……」
「枕探し! ……あいつのことか!」
「え? 何ですって、こいつアひでえや」
 ヒヤリとして音吉は首を縮めた。
 勿論音吉をはじめとして、乾児一同お妻のことを、どうせ只者じゃアありゃアしない。枕探し、女|邯鄲師《かんたんし》、そんなようには薄々のところ、実は推していたようなものの、亭主――情夫――陣十郎の口から、今のようにあからさまに云われては、ヒヤリとせざるを得なかった。
「何を云うんですい、水品先生」
「何とは何だ、これ何とは! ……枕探しだから枕探し、こう云ったに何が悪い。いずれは亭主の寝首を掻く奴! ……そんな女でも奥様か!」
「ワ――ッ、不可《いけ》ねえ、何を仰有るんで、……奥様で悪かったら奥方様……」
「出ろ! 貴様! 前へ出ろ!」
 勝手元一杯に漲っていた、明るい燈火《ひ》がカッと一瞬
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