、どちらへお出かけかとつけて[#「つけて」に傍点]来ると、お前の家へ入ったというものさ」
「へ、へい、さようで、それはそれは……」
「それはそれはでなくて、これはこれはさ。これはこれはとばかり驚いて、しばらく立って見ていたが、裏の方へ廻って行ったので、爺つぁんお前をよんだわけさ」
「へ、へい、さようでございますかな」
「裏にゃア何があるんだい?」
「へい、庭と生垣と……」
「それから雪隠と座敷とだろう」
「へい、裏座敷はございます」
「その座敷にだが居る奴はだれだ!」
「ワーッ! ……いいえ、どなた様も……」
「居ねえ所へ行ったのかよ」
「ナ、何でございますかな?」
「誰もいねえ裏座敷へ、俺の女房は入って行ったのか?」
「…………」
「犬か!」
「へ?」
「雄の犬か!」
「滅相もない」
「じゃア何だ!」
「…………」
「云わねえな、利いていると見える、お妻のくらわせた鼻薬が……」
「水品様、まあそんな……そんな卑しい弁三では……」
「ないというのか、こりゃア面白い、媾曳宿《あいびきやど》に座敷を貸して、鼻薬を貰わねえ上品な爺《おやじ》――あるというならこりゃア面白い! 貰った貰った鼻薬は貰った。そこでひし[#「ひし」に傍点]隠しに隠しているのだ! ……ヨーシそれならこっちの鼻薬、うんと利くやつを飲ませてやる」
 トンと刀の柄を叩いた。
「鍛えは関、銘は孫六、随分人を切ったから、二所ばかり刃こぼれがある、抜いて口からズーッと腹まで! ……」
 ヌッと陣十郎は立ち上り、グッと鯉口を指で切った。


 古びた畳、煤けた天井、雨もりの跡のある茶色の襖。裏座敷は薄暗く貧しそうであった。
 江戸土産の錦絵を張った、枕屏風を横に立てて、褥《しとね》の上に坐っているのは、蒼い頬、削けた顎、こればかりは熱を持って光っている眼、そういう姿の主水であった。
「心身とも恢復いたしました。もう大丈夫でございます」
 そんな姿でありながら、そうして声など力がないくせに、そう主水は元気ありそうに云った。
「そろそろ発足いたしませねば……」
「さあご恢復なさいましたかしら」
 高過ぎる程高い鼻、これだけが欠点といえば欠点と云え、その他は仇っぽくて美しい顔へ、意味ありそうな微笑を浮かべ、流眄《ながしめ》に主水を眺めながら、前に坐っているお妻は云った。
「ご恢復とあってはお父様の敵《かたき》、お討ち
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