い」
それから猪之松の方へ顔を向け、
「以前一二度お見かけいたした。高萩村の猪之松殿か、拙者秋山要介でござる。刀を納め下されい」
しばらくの間寂然としていた。
やがて刀の鞘に収まる、鍔鳴りの音が二つ聞こえた。
この頃源女は大薮を出て、唐黍《とうもろこし》畑の向こうを歩いていた。
(行かなければ不可《いけ》ない、さあ行こう)
こう思いながら歩いていた。
何者《だれ》か向こうで呼んでいる。そんなように彼女には思われるのであった。
畦を越し桑畑を越した。そうして丘を向こうへ越した。もう背後を振り返って見ても、街道も大薮も見えないだろう。
大渓谷、大傾斜、大森林、五百頭千頭の馬、無数の馬飼、宏大な屋敷――そういうものの存在している所へ、行かなければならない行かなければならない! ……そう思って彼女は歩いて行く。
崩れた髪、乱れた衣裳、彼女の姿は狂女そっくりであった。発作の止まない間中は、狂女と云ってもいいのであった。
長い小高い堤があった。
よじ上って歩いて行った。
向こう側の斜面には茅や蘆が、生い茂り風に靡いている、三間巾ぐらいの川があり、水がゆるゆると流れていた。
「あッ」
源女は足を踏み辷らせ、ズルズルと斜面を川の方へ落ちた。パッと葦切が数羽飛び立ち、烈しい声で啼いて去った。と、蘆を不意に分けて、古船が一隻辷り出た。源女がその中に倒れている。
纜綱《もやいづな》を切らした古船は、源女を乗せたまま流れて行く。
源女は微動さえしなかった。
各自の運命
1
高萩村に近い森の中まで、陣十郎を追って来た鴫澤主水《しぎさわもんど》は、心身全く疲労し尽くし、ほとんど人心地を覚えなかった。
抜身を地に突き体を支えたが、それにも堪えられずクタクタ倒れた。
とうに陣十郎は見失っていた。
その失望も手伝っていた。
(残念、逸した、敵を逸した!)
(が、飽くまでも探し出して、……)
立ち上ろうと努力した。
が、躰はいうことをきかず、のみならず精神さえ朦朧となった。
こうして杉や桧や槇や、楢などの喬木に蔽われて、その奥に朱の褪せた鳥居を持ち、その奥に稲荷の祠を持ち、日の光も通して来ず、で薄暗い風景の中に、雀や鶸《ひわ》や山雀《やまがら》や山鳩の、啼声ばかりが繁く聞こえる、鎮守の森に包まれて、気絶して倒れた主水の姿が、みじめに痛々しく眺められた。
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