」
落胆したように、また、安心したように、老人は、急に首を垂れ、振り上げていた刀を下げると、弱々しく、子供のように、栞へもたれ[#「もたれ」に傍点]かかった。赤い布のかかった艶々《つやつや》しい髪の下、栞の肩へ、老人の白髪《しらが》頭が載っている。白芙蓉のような栞の顔が、頬が、老人の頬へ附いている。秩父絹に、花模様を染め出した衣裳の袖から、細々と白い栞の手が延びて、老人の肩へかかっているのは、車の上の老人を、抱介《だきかか》えているからであった。いつか老人の手から、刀も棒も放され、刀は、車の前の、枯れ草の上に落ちた。何んと老人は眠っているではないか。刀を構え、この様子を眺めていた頼母は、危険はないと思ったか、刀を鞘に納め、二人の方へ寄って行ったが、
「栞殿、そのご老人は?」と、探るように訊いた。
「父でございます」――栞の声は泣いている。
「ご尊父? では、薪左衛門殿で?」
栞は黙って頷いた。
「それに致しても、ご尊父には、ご自身を、有賀又兵衛じゃと仰せられたが?」
「父は乱心いたしおるのでございます」
「ははあ」頼母はやっと胸に落ちたような気がした。狂人《きちがい》ででもなければ、深夜に、躄《いざ》り車などに乗り、刀を背負い、現われ出《い》で、自分を来栖勘兵衛などと見誤り、ガムシャラに斬ってなどかかる筈はない。(俺は、狂人を相手にしていたのか)頼母は、鼻白むような思いがしたが、
「ご乱心とはお気の毒な。していつ頃から?」
「五年前の、ちょうど今日、府中の火祭りの日でございましたが、松戸の五郎蔵と申す、博徒の頭《かしら》が参り、父と、密談いたしおりましたが、突然父が、『汝《おのれ》、来栖勘兵衛、執念深くもまだ、この有賀又兵衛を、裏切り者と誣《し》いおるか!』と叫びましたが、その時以来……」
栞は、片袖を眼にあてて泣いた。
屋根ばかりに月光を受けて、水のような色を見せ、窓も雨戸も、一様に黒く、廃屋のように見えている屋敷は、不幸な人々を見守るかのように、庭をへだてて立っていた。
(有賀又兵衛、来栖勘兵衛?)と、頼母は、考え込んだ。頼母は、有賀又兵衛、来栖勘兵衛という、伝説的にさえなっている、二人の人物の噂を、亡き父から聞かされていた。
「浪人組の頭での、傑物であった。わし[#「わし」に傍点]の家などへも、徒党を率《ひき》いてやって来て、金などを無心したものじゃ。五味左衛門の屋敷などへも再三出かけて行って、無心したらしい。又兵衛の方は、わけても人物で、仁義なども心得ており、大義名分などにも明らかで、王道を尊び、覇道を憎む議論などを、堂々と述べて、男らしいところを見せたので、ついわしなど、進んで金を出してやったものじゃ」と、父は語った。
しかし、その勘兵衛や又兵衛は、亡父《ちち》の話によれば、とうの昔に――二十年も以前《まえ》に、世間から姿を消してしまった筈であった。しかるに、薪左衛門殿が、その有賀又兵衛だという。(何故だろう?)しかし、頼母は、すぐ苦笑した。(相手は狂人《きちがい》なのだ、狂人の云うことなどに、何故も不思議もあるものか)
「栞殿」と、頼母は、塚の方をチラリと見たが、「お訊きいたしたいは、ここに作られてあります古塚、どうやらこれは野中の道了の……」
云われて栞も、眼にあてていた袖の隙から、塚の方を眺めたが、
「は、はい」
「野中の道了の塚を、お屋敷の庭へ作られるとは、何か仔細が……」
道了塚の秘密は
栞の泣き声は高くなり、しばらくは物を云わなかった。肥《ふと》りざかりの、十七の娘にしては、痩せぎす[#「せぎす」に傍点]に過ぎる栞の肩は、泣き声につれて、小刻みに顫えるのであった。
「それもこれも……」と、栞は、やがて、途切れ途切れに云った。「父の心を……正体ない父の心を……少しなりとも慰めてやりたさに……才覚しまして……妾《わたくし》が……」
顔から袖をとり、塚の頂きの碑を眺めた。南無妙法蓮華経という、七字だけが黒く、その周囲の碑の面は、依然、月の光で、鉛色に仄《ほの》めいて見えていた。
「父は」と、栞は、またも途切れ途切れに云った。「妾、物心つきました頃から、一里の道を、毎日のように、野中の道了様まで参りまして、塚の周囲を廻っては、物思いに耽りましたが……乱心しましてからは、それが一層烈しくなり、日に幾度となく……それですのに、父は躄者《いざり》になりましてございます」
嗚咽《おえつ》の声はまた高くなった。娘は、父親を抱き締めたらしい。白髪の頭が、肩から外れて、栞の胸にもたれ[#「もたれ」に傍点]ている。
「父には以前から、股に刀傷がございましたが、弱り目に祟り目とでも申しましょうか、乱心しますと一緒に、悪化《わる》くなり、とうとう躄者《いざり》に……」
草に落ちている抜き身は、氷のように光っている。庭のそちこちに咲いている桜は、微風に散っている。
「躄者になりましても、道了様へは行かねばならぬと……そこは正気でない父、子供のように申して諾《き》きませぬ。躄車《くるま》などに乗せてやりましては、世間への見場悪く、……いっそ、道了様を屋敷内へお遷座《うつ》ししたらと……庭師に云い付け、同じ形を作らせましたところ、虚妄《うつろごころ》の父、それを同じ道了様と思い、このように躄車に乗り、朝晩にその周囲《まわり》を廻り……」
悲しそうに、また栞は、眠りこけている父親を見やるのであった。
身につまされて聞いていた頼母は、いつか、栞の前へ腰を下ろし、腕を組んだ。
急に栞は、怒りの声で云った。
「父を脅かす者は、松戸の五郎蔵なのでございます。父は妾《わたくし》に申しました。『五郎蔵が殺しに来る。彼奴《きゃつ》には大勢の乾児《こぶん》があるが、俺《わし》には乾児など一人もない。味方が欲しい、旅のお侍様などが訪ねて参ったら、泊め置け』と。……」
(そうだったのか)と頼母は思った。(不思議に厚遇されると思ったが、さては、いつの間にか俺は、この屋敷の主人の、警護方にされていたのか)しかし事情が事情だったので、怒りも、笑いも出来なかった。
更けて行く夜は、次第に寒くなって来た。老人をいつまでも捨てておくことは出来なかった。二人は、躄車《くるま》を押して、屋敷の方へ行くことにし、頼母は、まず、草に捨ててある刀を拾い取り、老人の背の鞘へ差してやった。それから躄車を押しにかかった。
「勿体《もったい》のうございます」
栞が周章《あわ》てて止めた。手が触れ合った。
「あっ」
栞の声が情熱をもって響いた。
「ああ」
思春期の処女《おとめ》というものは、男性《おとこ》のわずかな行動によって、衝動を受けるものであり、そうしてその処女が、愛と良識とに恵まれている者であったら、衝動を受けた瞬間、相手の男性の善悪を、直観的に識別《みわ》け、その瞬間に、将来を托すべき良人《おっと》を――恋人を、認識《みとめ》るものである。狂人の、孤独の父親に仕え、化物《ばけもの》屋敷のような廃《すた》れた屋敷に住み、荒らくれた浪人者ばかりに接していた、無垢《むく》純情の栞が、今宵はじめて、名玉のように美しく清い、若い武士と、不幸な一家のことについて語り合ったあげく、偶然手を触れ合ったのであった。その一触が、彼女の魂を、根底から揺り動かし、「叫び」となって、彼女の口から出たのは、無理だとは云えまい。頼母は、栞の叫び声に驚いて、栞を見詰めた。栞の眼に涙が溢れていた。しかしその涙は、さっき、父親や、自分の家の不幸のために泣いた涙とは違い、歓喜と希望と愛情とに充ちた涙であった。栞の頬は夜眼にも著《しる》く赤味|注《さ》していた。頼母は、何が栞をそうまで感動させたのか解らなかった。手と手と触れ合ったことなど、彼は、気がつかなかったほどである。それほど彼は無邪気なのであった。しかし、栞の感動が、自分を愛してのそれであるということは直覚された。このことが今度は彼を感動させた。
(この娘がわし[#「わし」に傍点]を!)
その娘は、自分にとっては命の恩人と云えた。この娘の介抱がなかったら、自分は今朝死んでいたかもしれない!
(この娘がわし[#「わし」に傍点]を!)
頼母の心へ感謝の念が、新たに強く湧き、それと一緒に、愛情がヒタヒタと寄せて来るのを覚えた。
立ち尽くし、見詰め合っている二人の頭上には、練り絹に包まれたような朧《おぼ》ろの月がかかってい、その下辺《したべ》を、帰雁《かえるかり》の一連《ひとつら》が通っていた。花吹雪が、二人の身を巡った。
「勘兵衛!」と、不意に老人が叫んだ。「天国《あまくに》の剣を奪ったのも汝《おのれ》の筈じゃ! それをこの身に!」
(天国?)と、頼母は、ヒヤリとし、恍惚の境いから醒めた。
(この老人も、天国のことを云う!)
父、忠右衛門が、横死をとげ、自分が復讐の旅へ出るようになったのも、元はといえば、天国の剣の有無の議論からであった。頼母は、天国の名を聞くごとに、ヒヤリとするのであった。
(紙帳から出て来て、俺に体あたり[#「あたり」に傍点]をくれた武士も、天国のことを云ったが、薪左衛門殿も、天国のことを……)
頼母は、薪左衛門を見た。薪左衛門は眠っていた。眠ったままの言葉だったのである。
五郎蔵の賭場
こういうことがあってから、三日経った。
ここ、府中の宿は、火祭りで賑わっていた。家々では篝火《かがりび》を焚き、夜になると、その火で松明《たいまつ》を燃やし、諏訪神社の境内を巡《まわ》った。それで火祭りというのであるが、諏訪神社は、宿から十数町離れた丘つづきの森の中にあり、その森の背後の野原には、板囲いの賭場《とば》が、いくらともなく、出来ていて、大きな勝負が争われていた。
伊東頼母が、この一劃へ現われたのは、夕七ツ――午後四時頃であった。歩いて行く両側は賭場ばかりで、場内《なか》からは景気のよい人声などが聞こえて来た。夕陽を赤く顔へ受けて、賭場へはいって行く者、賭場から出て来る者、いずれも昂奮しているのは、勝負を争う人達だからであろう。総州松戸の五郎蔵持ちと書かれた板囲いを眼に入れると、頼母は、足をとめ、
「これが五郎蔵の賭場か、どれはいってみようかな」
と呟いた。
というのは、不幸な飯塚薪左衛門親子を苦しめる、五郎蔵という、博徒の親分の正体を見|究《きわ》めようために、やって来た彼だからである。そうして、彼としては、機会を見て、五郎蔵と話し、何故薪左衛門を脅《おど》すのか? 事実、薪左衛門は有賀又兵衛であり、五郎蔵は来栖勘兵衛なのか? 野中の道了塚で、二人は斬り合ったというが、その動機は何か? 野中の道了塚の秘密は何か? 等をも確かめようと思っているのであった。
それにしても飯塚薪左衛門の屋敷から、この府中までは、わずか一里の道程《みちのり》だのに、なぜ三日も費やして来たのであろう?
彼は三日前のあの夜、薪左衛門の屋敷で、ああいう事件に逢ったが、それから躄《いざ》り車を押して、栞共々、庭から屋内へ、薪左衛門を運び入れた。屋敷の中は大変であった。五人泊まっていたという浪人のうち、一人は斬り殺されてい、一人は片足を斬られてい、後の三人の姿は消えてなくなっていた。片足を斬られた浪人の語るところによれば、紙帳を釣って、その中にいた五味左門と宣《なの》る武士によって、この騒動が惹《ひ》き起こされたということであった。
この事を聞くと、頼母は仰天し、娘の栞へ、そのような武士を泊めたかと訊いてみた。すると栞は、「五味左門と宣り、一人のお武家様が、宿を乞いましたので、早速お泊めいたしましたが、お寝《やす》みになる時、紙帳を釣りましたかどうか、その辺のところは存じませぬ」と答えた。それで頼母は、どっちみち、紙帳の中から出て来て、自分を体あたり[#「あたり」に傍点]で気絶させた、武道の達人が、自分の父の仇の、五味左門であるということを知ったが、そんな事件が起こったため、その処置を、栞と一緒に付けることになり、三日を費やし、三日目の今日、ようやく府中へ来たのであった。
「なかなか立派
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