、深夜に、躄《いざ》り車などに乗り、刀を背負い、現われ出《い》で、自分を来栖勘兵衛などと見誤り、ガムシャラに斬ってなどかかる筈はない。(俺は、狂人を相手にしていたのか)頼母は、鼻白むような思いがしたが、
「ご乱心とはお気の毒な。していつ頃から?」
「五年前の、ちょうど今日、府中の火祭りの日でございましたが、松戸の五郎蔵と申す、博徒の頭《かしら》が参り、父と、密談いたしおりましたが、突然父が、『汝《おのれ》、来栖勘兵衛、執念深くもまだ、この有賀又兵衛を、裏切り者と誣《し》いおるか!』と叫びましたが、その時以来……」
 栞は、片袖を眼にあてて泣いた。
 屋根ばかりに月光を受けて、水のような色を見せ、窓も雨戸も、一様に黒く、廃屋のように見えている屋敷は、不幸な人々を見守るかのように、庭をへだてて立っていた。
(有賀又兵衛、来栖勘兵衛?)と、頼母は、考え込んだ。頼母は、有賀又兵衛、来栖勘兵衛という、伝説的にさえなっている、二人の人物の噂を、亡き父から聞かされていた。
「浪人組の頭での、傑物であった。わし[#「わし」に傍点]の家などへも、徒党を率《ひき》いてやって来て、金などを無心したものじゃ。
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