骸骨である証拠であり、最後に犠牲になった伊丹東十郎の骸骨に相違なかった。その骸骨へ、もがいている五郎蔵の手が触れた。と、骸骨はユラユラと揺れたが、すぐに、生命を取り返したかのように、グルリと方向を変え、傾き、穴ばかりの眼で五郎蔵を見下ろしたかと思うと、急に五郎蔵目掛け、仆れかかって行き、その全身をもって、五郎蔵の体を蔽い、白い歯をむき出している口で、五郎蔵の咽喉の上を蔽うた。
 恐怖の声が、道了塚の頂きから起こり、つづいて、氷柱《つらら》のようなものが、塚の縁から穴倉の中へ落ちて行った。穴倉の中の光景を見て、気を取りのぼせた薪左衛門が、天国の剣を手から取り落としたのであった。
 この時典膳の体が、小岩を抱いたまま、前方へのめり、それと同時に、穴倉の光景は消え、地上には、もう穴倉の口はなく、それのあった場所には、新しく掘り返されたような土壌《つち》と、根を出している雑草と、扁平《たいら》の磐石と、息絶えたらしい典膳の姿とがあるばかりであった。
 そうして道了塚の上では、穴倉の地獄の光景を見たためか、神霊ある天国の剣を失ったためか、ふたたび狂人となった薪左衛門が、南無妙法蓮華経と刻《ほ》ってある碑《いしぶみ》の周囲《まわり》を、蟇のように這い廻りながら、
「栞よーッ、来栖勘兵衛めが、伊丹東十郎に食い殺されたぞよーッ、栞よーッ」
 と、叫んでいた。

 その栞は、林の中で、紙帳を前にし、頼母に介抱されていた。栞を介《かか》えている頼母の姿は、数ヵ所の浅傷《あさで》と、敵の返り血とで、蘇芳《すおう》でも浴びたように見えてい、手足には、極度の疲労《つかれ》から来た戦慄《ふるえ》が起こっていた。
(敵は退けた。恋人は助けた!)
 しかし彼は、それをしたのは自分ではなくて、大半は五味左門であることを思った。
(その上私は、あやうく竹で突き殺されるところを、左門に助けられた)
 塑像《そぞう》のように縋り合っている二人の上へ降りかかっているものは、なんどりとした春陽であり、戦声が絶えたので啼きはじめた小鳥の声であり、微風に散る桜の花であった。そうして二人の周囲に散在《あ》る物といえば、五郎蔵の乾児たちの死骸であった。

    苦行者か殺人鬼か

 頼母は、ふと、眼を上げて見た。左門が、乾児たちの死骸の中に立ち、もう血粘《ちのり》をぬぐった刀を鞘に納め、衣紋《えもん》をととのえ、腕組みをし、紙帳を見ていた。その姿は、たった今しがたまで、殺戮《さつりく》をほしいままにしていた人間などとは見えなかった。顔色はいつもどおり蒼白かったが、いつも煤色の唇は赤くさえあった。目立つのはその眼で、それには何かを悲しんででもいるかのような色があった。何を悲しんでいるのであろう? 頼母は左門の視線が紙帳に食い入っているのを見、自分も紙帳を見た。
 紙帳は、血によって、天井も四方の側面《がわ》も、ことごとく彩色《いろど》られていた。そうして、古い血痕と、新らしい血痕とによって、怪奇《ふしぎ》な模様を染め出していた。すなわち、塔のような形が描かれてい、堂のような形が描かれてい、宝珠のような形が描かれてい、羅漢のような姿が描かれてい、仏のような姿が描かれてい、卍のような形が描かれているのであった。
 それは、諸法具足を象徴《あらわ》した曼陀羅の模様であった。血で描かれた曼陀羅紙帳は、諸所《ところどころ》切り裂かれ、いまだに血をしたたらせ、ノロノロとしたたる血の筋で、尚、如来の姿や伽藍の形を描いていた。
(諸法を具足すれば円満の境地であり、円満の境地は、一切無差別、平等の境地であり、この境地へ悟入《はい》った人間《ひと》には、不平も不安も不満もない。そういう境地を模様で現わしたものが曼陀羅だ。……この紙帳の内と外とで、俺は幾十人の人を殺したことか。……また、この中で、父上も俺も、どれほど考え苦しみ、怒り、悶え、憎み、喜び、泣き、笑ったことか。紙帳こそは、父上と私との、思考《かんがえ》と行動《おこない》との中心であった。……その紙帳が、曼陀羅の相を呈したとは?)
 考えに沈んでいる左門の前で、血曼陀羅の紙帳は、微風に揺れ、皺を作ったり、襞《ひだ》を拵《こしら》えたりしていた。
(少くも曼陀羅の境地へ悟入《はい》るには、思考と行動とが同伴《ともな》わなければいけないらしい。……少くも俺は、この紙帳の内と外とで、善悪共に、思考《かんが》え且つ行動《おこな》ったのは事実だ)
 さっき紙帳へ停まって啼いていた頬白ででもあろうか、一羽の頬白が、矢のように翔けて来て、紙帳へ停まろうとしたが、鮮血の赤さに驚いたのか、飛び去った。
(紙帳が曼陀羅の相を呈したのは、この中で思考え行動った俺の行為《おこない》が、曼陀羅の境地へ悟入る行為であったと教えてくれたのか? ……そんなことはない! …
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