、耳に入れようとはせず、ただ、女の腕に縋り、それを手頼《たよ》りに、崖の上へあがろうと、ひしと女の手を握った。
「お願いでございます。この手を、グッとお引きくださいまし。それを力に、私、崖を上がるでございましょう。ご女中、さ、グッとこの手を……」
 お浦は、突然手を握られて、ハッとしたが、咽喉の渇きがいよいよ烈しくなって来たので、握られた手を振り放そうとはせず、
「水を! まず、水を! ……その後にお力になりましょう。手をお引きいたすでございましょう。……おお、水を!」
 この二人を照らしているものは、練絹《ねりぎぬ》で包んだような、朧《おぼ》ろの月であった。
 典膳は、やっと、ヒョロヒョロと立ち上がった。お浦の体は、いよいよ崖の方へはみ出した。
 二人の顔はヒタと会った。
「…‥……」
「…………」
 鵜烏《うがらす》が、川面を斜《はす》に翔けながら、啼き声を零《こぼ》した。

 こういう事件があってから三日の日が経った。
 その三日目の朝、飯塚薪左衛門の娘の栞《しおり》は、屋敷を出て、郊外を彷徨《さまよ》った。さまよいながらも彼女の眼は、府中の方ばかりを眺めていた。連翹《れんぎょう》と李《すもも》の花で囲まれた農家や、その裾を丈低い桃の花木で飾った丘や、朝陽を受けて薄瑪瑙色《うすめのういろ》に輝いている野川や、鶯菜《うぐいすな》や大根の葉に緑濃く彩色《いろど》られている畑などの彼方《あなた》に、一里の距離《へだたり》を置いて、府中の宿が、その黒っぽい家並みを浮き出させていた。
(今日あたり頼母様にはお帰りあそばすかもしれない)
(いいえ、頼母様、是非お帰りあそばしてくださいまし)
 山水のように澄んでいる眼には、愛情の熱が燃え、柘榴《ざくろ》の蕾《つぼみ》のように、謹ましく紅い唇には、思慕の艶が光り、肌理《きめ》細かに、蒼いまでに白い皮膚には、憧憬《あこがれ》の光沢《つや》さえ付き、恋を知った処女《おとめ》栞の、おお何んとこの三日の間に、美しさを増し、なまめかしさを加えたことだろう! 彼女は過ぐる夜、屋敷の中庭で、頼母と会って以来、それまで、春をしらずに堅く閉ざしていた花の蕾が、一時に花弁《はなびら》を開き、色や馨《かお》りを悩ましいまでに発散《はな》すように、栞も、恋心を解放《はな》し、にわかに美しさを加えたのであった。
(妾《わたし》の良人《おっと》は頼母様
前へ 次へ
全98ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング