付けたまま、今にも呼吸が切れそうなほどにも、烈しく喘いでいるのであった。
(咽喉《のど》が乾く! 水が飲みたい!)
 彼女はこればかりを思っていた。
(川があるらしい、水の音がする)
 この時までも、小脇に抱いていた天国の刀箱を、依然小脇に抱いたままで、彼女は川縁の方へ這って行った。
 一方は宿の家並みで、雨戸をとざした暗い家々が、数町の彼方《あなた》に立ち並んでおり、反対側は髪川で、速い瀬が、月の光を砕いて、銀箔を敷いたように駛《はし》ってい、その対岸に、今を盛りの桜の老樹が、並木をなして立ち並んでい、烈しい風に、吹雪のように花を散らし、花は、川を渡り、お浦の肉体の上へまで降って来た。そうして、その桜並木の遙か彼方《むこう》の、斜面をなしている丘の上の、諏訪神社の辺りでは、火祭りの松明《たいまつ》の火が、数百も列をなし、蜒《うね》り、渦巻き、揉みに揉んでいるのが、火龍が荒れまわっているかのように見えた。
 お浦は、やっと川縁まで這い寄った。彼女は、崖の縁を越して、前の方へ腕を延ばした。すぐそこに川が流れているものと思ったかららしい。
(水が飲みたい、水を!)
 しかし川は、彼女のいる川縁から、一丈ばかり下の方を流れていた。そうして、川縁から川までの崖は、中窪みに窪んでい、その真下は岩組であった。
 その岩組の間に挾まり、腰から下を水に浸し、両手で岩に取り縋り、半死半生になっている男があった。渋江典膳であった。
 彼は、この髪川の上流、竹藪の側で、お浦のため短刀で刺された上、川の中へ落とされた。女の力で刺したのと、衣裳の上からだったのとで、傷は浅かった。しかし、川へ落ちた時、後脳を打ち、気絶した。でも、気絶したのは、典膳にとっては幸運だった。水を飲まなかった。その典膳は、ここまで流されて来、ここの岩組の間に挾まり、長い間浮いているうちに蘇生した。蘇生はしたが、衰弱しきっている彼は、川から這い上がることさえ出来なかった。助けを呼ぶにも、声さえ出なかった。彼はただ、岩に取り縋っているだけで精一杯であった。
 彼の心は、五郎蔵とお浦とに対する、怒りと怨みとで一杯であった。
(彼奴《きゃつ》ら二人に復讐するためばかりにも、生き抜いてやらなけりゃア)
 こう思っているのであった。
(昔の同志、同じ浪人組の仲間を、頭分たる彼奴が、女を使って殺そうとしたとは! 卑怯な奴、義理も人
前へ 次へ
全98ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング