屋にいた。変なお婆さんが何か云った。一言も妾《わたし》には解《わか》らなかった」
お紅は空腹を感じて来た。人が気絶から醒めた時には、空腹を感じるものである。
「妾に下された食物なのであろう。では妾は遠慮なく食べよう」
で、お紅は手を延ばして、順々に食物を食べて行った。
「ああ妾は咽喉《のど》が乾いた。水注の水を飲むことにしよう」
で、咽喉を潤《うる》おした。
しかしお紅は知らなかった。それらの食物や水の中に、愛慾をそそる××質が――麝香《じゃこう》とか、芫花《けんか》とか、禹余糧《うよりょう》とか陽起石《ようきせき》とか、狗背《くはい》とか、馬兜鈴《ばとれい》とか、漏蘆《ろろ》などというそういう××質が、雑ぜられてあるということを。
ただお紅は飲食をしたため、にわかに体が活々となり、元気づいて来たということと、恍惚《うっとり》とした甘い気持が、心に湧いたということを、感ずることが出来たまでであった。
「体が汗にぬれている。妾は風呂へ入ることにしよう」
で、お紅は立ち上ったが、念のために部屋の中を見廻してみた。
が、誰も見ていない。
で、そろそろと帯を解いて。一枚々々衣装を脱ぐ、花の蕾が萼から花弁と、――一枚々々、一枚々々と――だんだんほぐれて行くようである。
と、雌蕊が現われた。処女の肉体が一糸も纏わず、白く艶々とむき出されたのである。
余りに清浄であるがために、たとえ誰かが見ていたとしても、何らの邪心さえ起こさなかったであろう。そんなにもお紅の裸体の姿は、清らかで美しいものであった。そうしてお紅のその裸身が、呂宋《ルソン》織りの垂布《タピー》を左右にひらいて、浴槽の部屋へ消えた後には、脱ぎ捨られた紅紫の衣装が、散った花のように残されていた。
そうしてその頃にはお紅の裸身は、浴槽の中に埋もれていた。例えることが許されるなら、浴槽の中の緑色の湯は、紺碧をなした潮であり、それに埋もれている裸体のお紅は、若い美しい人魚でもあろうか?
まさしく人魚に相違なかった。乳房から上を、潮から乗り出し、肩の上へ黒髪を懸けいている。快く閉ざした眼の瞼の、上気して薄紅く艶めかしいことは! ポッカリと唇を無心にあけて、前歯の一部分を現わしている。それがやはり艶かしい。
と、お紅は立ち上ったが、浴槽を出ると蹣跚《よろめ》くように、香水管の下まで行って、起立したまま静まった。裸体から滴がしたたり落ちる。裸体を香水の霧が蔽う。斑《ふ》のない大理石の彫像を、繭から出たばかりの生絹が、眼にも入らない細さをもって、十重に二十重に引っ包み、暈しているのではあるまいかと、そんなようにも見え做される。
だがお紅は知らなかった。浴槽の緑の湯の中に、熏陸《くんりく》、烏薬《うやく》、水銀郎《すいぎんろう》等の、××質が入れてあったことを。
そうしてさらに知らなかった。管から吹き出している香水の中に、馬牙硝《ばがしょう》、大腹子《たいふくし》、杜仲《とちゅう》などの、同じく××的香料が、まぜられてあったということを。
いつまでもお紅は陶然として、香水の霧に巻かれている。
しかしそれから体を拭って、垂布をくぐって前房へ出て、そうしていぜんとして一糸も纏わず、バタビヤ織りの垂布をひらいて、寝部屋の中へよろめき込み、寝台へ体を横仆えて、桃色の薄布を一枚だけ懸けて、ウトウトと眠りに入った頃から、身内の血潮が騒ぎ立ち、…………、…………、追っかけ追っかけ上ぼって行くのを、堪えることが出来なかった。
漁色の動物
「ああ妾《わたし》はどうしたんだろう? こんな気持になったことは、それこそ産れて初めてだよ」
薄衣《うすぎぬ》の下で身もだえをした。桃色の薄衣が裸休に準じて、蠱惑的の襞を作っている。胸の辺りが果物のように、両個ムッチリ盛り上っていたが、乳房がその下にあるからであった。下腹部の辺りが円錐形に円《まる》く、その上を蔽うている薄衣の面が、ピンと張り切って弛みのないのは、食物を充分に食べたがために、事実お腹が弾力をもって、張り切っているがためであろう。延ばされた左右の脚の間が、少し開らけていると見える。そこへ掛けられた薄衣の面が、深い窪味をこしらえている。薄衣は咽喉までかかっていたが、その薄衣から抽《ぬきで》たところの、顔の表情というものは、形容しがたく艶麗であった。と、その顔を抑えようとしてか、薄衣の縁から両腕を延ばし、肘から湾のように丸く曲げたが、直ぐに掌《てのひら》で顔を抑えた。と、脇下の可愛らしい窪味が、きわだって[#「きわだって」に傍点]黒く見て取れた。
烈しく喘いでいるらしい。胸から胴から下腹部から、延ばされた二本の脚の方へ、蜒《うねり》のようなものが伝わって行く。のた[#「のた」に傍点]打っている爬虫類さながらである。
そういうお紅を載せているところの、天鵞※[#「糸+戊」、513−下−12]《びろうど》張りの異国風の寝椅子は、先刻《さっき》から絶間のないリズムをもって、上へ下へと揺れている。
お紅の心へ萌したものは、異性恋しさの心持であった。
その異性の対象は、最初は北畠秋安であった。
「妾《わたし》…………! 妾を…………!」
で、若々しい健康らしい、秋安の肉体を描いてみた。
「妾はあのお方と約束をした。行末|夫婦《めおと》になりましょうと。……おいで下され! おいで下され! そうして妾を愛撫して下され!」
次第に心が恍惚として来る。全身が鞣めされ麻痺されて来る。処女《おとめ》心が失われようとする。
「ああ妾には誰でもいい」
不健全で好色で惨忍な、秀次の顔が浮かんで来た。
と、秀次に…………甦って来た。ちっとも穢わしく思われない。ちっとも厭らしく思われない。今は全く反対であった。…………希《ねが》っていた。
だがその次に浮かんで来たのは、不破小四郎の姿であった。
「今直ぐ妾へ来て下さるなら、……………!」
美しくはあったが上品ではなかった。――そういう不破小四郎の顔が、お紅には上品に見えさえした。
「ああ妾はあの人にだって…………!」
寝台がリズミカルに揺れている。
お紅の全身は汗ばんで来た。呼吸が…………。薄衣の下の肉体が…………。
で、この寝部屋の寝台の上に、…………裸形の女は、決してお紅ではないのであった。単なる漁色的の動物であった。つつましい清浄なお紅という処女は、ほんの少し前に消えたのである。
しかし漁色の動物は、お紅一人ではないのであった。
あの近東の回教国の、密房に則って作ったところの、この奇形な建物の内には、同じような部屋が幾個《いくつ》かあって、その部屋々々には漁色狂の女が、無数に籠められて居るらしい。その証拠には四方八方から、極めて遠々しくはあったけれど、…………を柱へでも投げつけるらしい、物の音などが聞こえてきた。
みだらな唄声なども聞こえてくる。
だがお紅には聞こえなかった。
掻きむしられるような…………が、身心をメラメラと焼き立てる。その…………を消し止めようと、お紅は夢中で争っている。
しかし絶対に勝ち難かった。次第々々に負けて来た。とうとうお紅は打ちのめされた。
「妾は…………! 最初に来た人へ!」
桃色の薄衣を退《の》けようとする。そうしてお紅は立ち上ろうとした。そうしてお紅は叫ぼうとした。
「お婆さんお婆さん出して下さい! そうでなかったら連れて来て下さい!」
で、お紅は泣き出した。
で、もし誰か異性の一人が、ここの寝部屋へ入り込んだならば、お紅は…………。…………を失うであろう。
そうして今やそういう異性が、奇形な建物の出入口の前へ、ひそかに姿を現わした。
他ならぬ不破小四郎であった。
出入口の前に扉がある。内部が厳重にとざされている。その前に立った小四郎は、四辺《あたり》を憚ったひそやかな声で、
「姥はいるか、四塚の姥は!」
こう呼びかけて聞き耳を立てた。
光消えぬ矣簒奪星
と、扉の向こう側から、老婆の声が聞こえてきた。
「四塚の姥はこの妾《わたし》で。……何かご用でもござりますかな?」
嘲笑っているような声である。
「俺《わし》はな、小四郎だ、不破小四郎だ」
「お声で大概|判《わか》りますよ。小四郎様でござりましょうとも」
嘲笑っているような声である。
「姥か、お願いだ、扉をあけてくれ」
するといよいよ嘲笑いの声を、四塚の姥は扉の中で立てたが、
「これはこれは何を有仰《おっしゃ》るやら、聚楽第《じゅらくだい》のお侍でありながら、聚楽第の掟をご存知ないそうな。この密房は男禁制、開けることではござりませぬよ」
「何を、莫迦な、そんなことぐらい、この小四郎が知らないものか。知っていればこそ頼むのだ。是非この扉をあけてくれ。そうしてお紅に逢わせてくれ。……お紅という娘はいるだろうな?」
「ハイハイおいででござりますよ。今頃はねんね[#「ねんね」に傍点]でござりましょう。いいご機嫌でな。夢中でな」
「お紅は俺の女なのだよ。それを殿下が横取ったのだよ。いやいや横取ろうとしているのだよ。で、この密房へ入れたのさ。……だがお紅は俺のものだ。渡してくれ、渡してくれ!」
懇願的の声となった。
「あの娘は本当に美《い》い女だ。聚楽中にもないくらいだ。で、ご愛妾の一人が死んだ。お前も知って居る京極のお方だ。今日まで殿下のご寵愛を、一人占めにして占めていられた方だ、そのお方が懐刀で自害された。お紅の懐中《ふところ》から転び出た刀で、まるでお紅が殺したようなものだ。いや事実殺したのだ。お紅を嫉妬して死んだのだからな。お紅がご愛妾になろうものなら、寵愛を失うと思ったからさ。……そんなにも綺麗なお紅なのだ。俺だって恋しく思うではないか。頼む、あけてくれ、扉をあけてくれ!」
更にそれから誘惑するように。
「が、勿論頼むには、頼むだけのことはするつもりだ……殿下から拝領の生絹をやろう、殿下から拝領の羅紗布をやろう、殿下から拝領の紋唐革をやろう。もしお前が欲しいというなら、刺繍した黒|天鵞※[#「糸+戊」、515−下−18]《ビロード》をくれてやる。黄金をやろう、背負いきれないほどの黄金を!」
どうやら最後のこの言葉は、四塚の姥をまどわした[#「まどわした」に傍点]らしい。
しばらくの間は黙っていたが、諂うように声をかけた。
「黄金を下さると有仰るので?」
「やるよやるよ、背負いきれないほどやるよ」
「まあまあ左様でござりますか、考えることにいたしましょう。妾はすっかり老い枯ちて居ります。この女部屋の宰領役さえ、わずらわしいものになりました。どうぞ閑静な土地へ参って、安楽なくらし[#「くらし」に傍点]をいたしたいもので。それにはお宝が入用《い》りますので。……貴郎《あなた》様がそれを下さるという。有難いことでござりますよ。ではこの扉をあけましょう。ご自身にお入りなさりませ。ご自身に寝部屋へ参られませ」
すぐにカチカチと音がした。どうやら錠でもあけるらしい。
「有難い有難い礼を云うぞ。そうしたら俺はお紅を連れ出し、遠く他国へ行くことにしよう。そうしてそこで一緒に住む」
やがてギーという音がした。
と、扉が一方へあいて、先刻《さっき》方お紅の部屋に在って、お紅に因果を含めていた、老婆が顔をつき出した。すなわち四塚の姥である。
「お入りなされ」
「もう占《し》めたぞ!」
だがその時どうしたのであろうか、四塚の姥は、
「あッ」と云ったが、ビ――ンと扉をとじてしまった。
主殿《おもや》とつながれている廻廊を、一つの人影が辷るように、こっちに近寄って来たからである。
「小四郎!」
「おッ、ご宿老様!」
「不忠者!」
か――ッと一太刀!
悲鳴が起こって骸が斃れた。
幸蔵主《こうぞうす》が樓上で耳にしたのは、この小四郎の悲鳴なのであった。
「四塚の姥! 扉をあけろ。……うむ、開けたか、顔を出せ。……お紅という娘が居るはずだ。丁寧にあつかって連れて参れ」
「かしこまりましてござります」
密房の扉があけられている。
砂金色の燈火《とも
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