でもあった。
 秀吉との不和は秀次にとっては、何よりも恐ろしいものであった。で、甘心を買おうとした。それを中にいて斡旋したのが他ならぬ老女の幸蔵主であった。
 その幸蔵主が忍ぶようにして、伏見の秀吉の居城からこの聚楽へ来たのであった。
 そうして何やら幸蔵主は、秀次に旨を含ませたらしい。
 どういう旨だか解《わか》らない。
 しかしどうやら秀次にとっては、快くない旨らしい。それには従おうとはしないのであった。
 そうして終日不機嫌であった。
 で、何となくここ数日、聚楽第の空気は険悪であった。
「ナーニ大丈夫だ大丈夫だ」
 不破小四郎は事もないように、さも不雑作にこう云ったが、自信がありそうに一同を見た。
「幸蔵主の姥がやって来て、殿下のご機嫌がよくなくて、終日終夜の乱痴気騒ぎで、上下が昏迷をしているのが、かえって俺には好都合なのさ。どさくさまぎれに申し上げて、殿下のお許しを受けるのさ。よろしい行《や》れ! と仰せられるであろうよ。どっちみち俺は明日か明後日、関白殿下のお使者として、北畠の邸へ出かけて行こう。承知《き》くも承知《き》かないもありはしない。関白殿下よりのご命令なのだ。娘を差し出すに相違ない。承知かない場合には攫って来る」
 間違いはないよと云うように、小四郎は額をこする[#「こする」に傍点]ようにしたが、果たして成功するであろうか?


巨人と怪人

 その日からちょうど二日経った。
 ここは聚楽の奥庭である。おりから深夜で月はあったが、植え込みが茂っているために、月の光が遮られている。
 一宇の亭《ちん》が立っていて、縁の一所が月光に濡れて、水のように蒼白く暈けていた。
 そこに腰をかけている武士がある。
 思案にあまったというように、胸の辺りへ腕を組んで、じっと足許を見詰めている。
 木の間をとおして聚楽第の、宏壮な主殿《おもや》が見えていたが、今夜も酒宴と思われて、陽気な声が聞こえてくる。間毎々々《まごとまごと》に点もされた燈《ひ》が、不夜城のようにも明るく見える。
「どうしたのだろう、遅いではないか」
 縁に腰をかけた大兵の武士は、誰かを待ってでもいると見えて、ふとこう口に出して呟いた。
 と、その呟きに呼ばれたかのように、巨大な蘇鉄の根元を巡って、小兵の武士があらわれた。
「木村殿かな? 常陸《ひたち》殿かな」
「おお五右衛門か、待ちかねていたよ」
「約束の時刻よりは早いつもりだ」
 云い云い静かに歩み寄って、縁へ腰をかけた常陸介と、押し並ぶように腰かけたのは、無徳道人《むとくどうじん》事石川五右衛門であった。
 ちょいと五右衛門は主殿《おもや》の方を見たが、
「相変わらず今夜も盛んだの」
「うん」と云ったものの常陸介の声には、憂わしい不安な響きがあった。
「あの有様だから困るのだ」
「そうさ、あれでは困るだろう」
 で、沈黙が二人へ来た。
「ところで五右衛門結果はどうだ?」
 ややあって常陸介がこう訊《たず》ねた。
「うむ、ともかくも一通りは探った」
 五右衛門の声には笑殺《しょうさつ》がある。
「ただの私用ではないのだよ」
「俺もそうだろうとは感付いていたが、幸蔵主の態度が不明なのでな」
「あれは秀吉の懐中《ふところ》刀さ」
「が、我君にも忠実のはずだ」
「しかしそれは私情だよ。大事に処せば私情などは、古沓《ふるぐつ》のように捨てしまう」
「お互いそれには相違ないさ。……で、幸蔵主が我君を連れて伏見の城へ行こうとするのは、やはり太閤の指し金かな?」
「そうだ秀吉の指し金なのだ」
「伏見へ召してどうするのだろうな?」
「まず詰腹でも切らせるだろうよ」
「詰腹。……ふうむ。……そうかも知れない。……」
 常陸介にもそういうことは、以前から心にあったものと見えて、そう云われても驚かなかった。しかし苦悶は感じたらしい。俯向いて足許を睨んでいる。五右衛門もしばらくは物を云わない。で、この境地はひそやかであった。
 それと反対の趣をなして、明るい華やかな笑い声が、主殿の方から聞こえてきた。
「五右衛門」と常陸介は呼びかけた。
「ひとつ詳しく話してくれ、伏見はどんな様子なのだ」
「詳しく話せと云ったところで、これと云って詳しく話すところもないが。だがマア探っただけを話して見よう。……お前から依頼《たのみ》を受けたので、その足で直ぐに伏見へ行って、城中へ忍んだというものさ。秀吉め天下に敵がないというので、安心しきっているのだろう。城のかため[#「かため」に傍点]なんか隙だらけだった。で、奥御殿へ行くことが出来た。それでもさすがに宿直《とのい》の部屋には、仙石《せんごく》権兵衛だの薄田隼人《すすきだはやと》だのが、肩や肘を張って詰めていたよ、しかしそいつの話と来ては、お話にも何にもならなかった。女の話ばかりしているの
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