の独楽は以前には廻す毎に、文字を現わしたものでございますが、いつの間にやらその事がなくなって、この頃ではどのように廻したところで、文字など一字も現われません」と話した。
「ではやはり奥方様お持ちの独楽は、淀屋の独楽に相違ない」とそうお八重は見極めをつけ、とうとうその独楽を昨日奪って、折柄塀外へ来たお葉の手へ、投げて素早く渡したのであった。今夜裏門にて――と隠語に書いたのは、望みの品物を奪い取ったのだから、もうこの屋敷にいる必要はない。でお葉に裏門まで来て貰って、一緒にこの屋敷から逃げ出そうと思い、さてこそそのように書いたのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、今までじっと俯向いて、膝頭を見詰めていた眼を上げて、頼母の顔を正視した。
「隠語を記しましたあの紙片を、ご家老様には何者より?」
「あれか」
 すると松浦頼母は複雑の顔へ一瞬間、冷笑らしいものを漂わせたが、
「其方《そち》の恋人山岸主税が、わしの手にまで渡してくれたのよ!」
「え――ッ、まア! いえいえそんな!」
 物に動じなかったお八重の顔が、見る見る蒼褪め眼が血走った。

   お八重の受難

 そういうお八重を松浦頼母は
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