といえばこればかりではない! ……閉扉《あけず》の館の戸が開いたのも、燈火の光が現われて、われわれを二階へみちびいたのも、釘づけにされてある館の雨戸が、このように一枚だけ外されてあるのも、一切ことごとく不思議でござる」
「きっと誰かが……お父様の霊が、……わたしたちの運命をお憐れみ下されて、それで様々の不思議を現わし、救って下さるのでございましょうよ。……さあ主税様、この梯子をつたわり、ともかくも戸外へ! ともかくも戸外へ!」
「まず其方《そなた》から。あやめ[#「あやめ」に傍点]よ先に!」
「あい」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は褄をかかげ、梯子の桟へ足をかけた。
「あッ、しばらく、あやめ[#「あやめ」に傍点]よお待ち! ……何者かこっちへ! 何者かこっちへ!」
見れば月光が蒼白く明るい、眼の前の庭を二つの人影が、組みつほぐれつ、追いつ追われつしながら、梯子の裾の方へ走って来ていた。
二人は素早く雨戸の陰へかくれ、顔だけ出して窺った。
夜眼ではあり遠眼だったので、庭上の人影の何者であるかが、主税にもあやめ[#「あやめ」に傍点]にもわからなかったが、でもそれはお葉と松女なのであった。
「さあお母様あの館で――十年戸をあけないあけず[#「あけず」に傍点]の館で、懺悔浄罪なさりませ! ……あの館のあの二階で、御寝なされていたお父様の臥所へ、古沼から捕った毒虫を追い込み、それに噛せてお父様を殺した……罪悪の巣の館の二階で、懺悔なさりませ懺悔なさりませ!」
母の松女の両手を掴み、引きずるようにして導きながら、お葉は館の方へ走るのであった。
行くまいともがく[#「もがく」に傍点]松女の姿は、捻れ捩れ痛々しかった。
「お葉やお葉や堪忍しておくれ、あそこへばかりは妾《わたし》は行けない! ……この年月、十年もの間、もう妾は毎日々々、心の苛責に苦しんで、後悔ばかりしていたのだよ。……それを、残酷な、娘の身で、あのような所へお母様を追い込み! ……それにあそこ[#「あそこ」に傍点]は、あの館は、扉も雨戸も鎹《かすがい》や太い釘で、厳しく隙なく止めに止めて、めったに開かないようにしてあるのだよ。……いいえいいえ女の力などでは、戸をあけることなど出来ないのだよ。……行っても無駄です! お葉やお葉や!」
しかし二人が閉扉の館の、裾の辺りまで走りついた時、二人ながら「あッ」と声をあげた。
二階の雨戸が開いており、梯子がかかっているからであった。
「あッあッ雨戸が開いている! ……十年このかた開けたことのない、閉扉の館の雨戸が雨戸が! それに梯子がかかっているとは!」
松女は梯子の根元の土へ、恐怖で、ベッタリ仆れてしまった。
その母親の側《そば》に突っ立ち、これも意外の出来事のために、一瞬間放心したお葉がいた。
しかし直ぐお葉は躍り上って叫んだ。
「これこそお父様のお導き! お父様の霊のお導き! ……妻よここへ来て懺悔せよと、怒りながらも愛しておられる、お父様の霊魂が招いておる証拠! ……そうでなくて何でそうも厳重に、十年とざされていた閉扉の館の、雨戸が自然と開きましょうや! ……梯子までかけられてありましょうや!」
母親の手をひっ掴み、お葉は梯子へ足をかけた。
「お母様!」と松女を引き立て、
「さあ一緒に、一緒に参って、お父様にお逢いいたしましょう! いまだに浮かばれずに迷っておられる、悲しい悲しいお父様の亡魂に!」
月下の殺人
「お葉かえ!」とその途端に、二階から女の声がかかった。
お葉は無言で二階を見上げた。
欄干から半身をのり出して、あやめ[#「あやめ」に傍点]が下を見下ろしている。
「あッ、お姉様! どうしてそこには?」
しかしあやめ[#「あやめ」に傍点]はそれには答えず、松女の姿へじっと眼をつけ、
「お葉やお葉や、そこにいるのは?」
「お母様よ! お姉様!」
「お母様だって? 良人《おっと》殺しの!」
「…………」
「良人殺しの松女という女かえ!」
「…………」
「よくノメノメとここへは来られたねえ」
「いいえお姉様」とお葉は叫んだ。
「わたしがお母様をここまで連れて……」
「お前がお母様を? 何のために?」
「お父様を殺したあのお部屋へ、お母様をお連れして懺悔させようと……」
「その悪女、懺悔するかえ?」
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や!」とはじめて松女は叫んだ。
連続して起こる意外の出来事に、今にも発狂しようとして、やっと正気を保っている松女が、嗄《しゃが》れた声で叫んだのである。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]や……お前までが……この屋敷へ! ……いいえいいえ生みの家へ……おおおお帰っておいでだったのか! ……あやめ[#「あやめ」に傍点]や、あんまりな、あんまりな言葉! ……悪女とは! 懺悔する
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