とであろう。そんなところへうかうか帰って行って、頼母の奸悪を申し立てたところで、信じられようはずはない。切腹かそれとも打ち首にされよう。これは分かりきった話であった。
そこで主税は自然の成り行きとして、浪人の身の上になってしまった。そうしてこれも自然の成り行きとして、あやめ[#「あやめ」に傍点]と一緒に住むようになった。
「おりを見て荏原《えばら》屋敷へ忍び入り、お実父《とう》様の敵《かたき》を討たなければ……」
あやめ[#「あやめ」に傍点]としてはこういう心持から、又、一方主税としては、「淀屋の財宝と荏原屋敷とは、深い関係があるらしいから、探ってみよう」という心持から、二人合意で荏原屋敷の見える、ここの農家の離家《はなれ》を借りて、夫婦のように住居《すまい》して来たのであった。
しかるに二人して住んでいる間も、主税に絶えず思い出されることは、云いかわした恋人お八重のことで、従って自ずとそれが口へ出た。そうでない時には淀屋の独楽を廻し、これまでに現われ出た文字以外の文字が、なお現われはしまいかと調べることであった。
しかしもちろん主税としては、あやめ[#「あやめ」に傍点]の寄せてくれる思慕の情を、解していないことはなく、のみならずあやめ[#「あやめ」に傍点]は自分の生命《いのち》を、二度までも救ってくれた恩人であった!
(あやめ[#「あやめ」に傍点]の心に従わなければ……)
このように思うことさえあった。
しかし恋人お八重の生死が、凶とも吉とも解《わか》らない先に、他の女と契りを交わすことは、彼の心が許さなかった。そこでこれまではあやめ[#「あやめ」に傍点]に対して、故意《わざ》と冷淡に振舞って来た。
が、今になってそのあやめ[#「あやめ」に傍点]から、このように激しく訴えられては、主税としては無理なく思われ、心が動かないではいられなかった。
堅く眼を閉じてはいたけれど、あやめ[#「あやめ」に傍点]の泣いていることが感じられる。
(決して嫌いな女ではない)
なかば恍惚となった心の中で、ふと主税はそう思った。
(綺麗で、情熱的で、覇気があって、家格も血統も立派なあやめ[#「あやめ」に傍点]! 好きな女だ好きな女だ! ……云いかわしたお八重という女さえなければ……)
恋人ともなり夫婦ともなり、末長く暮らして行ける女だと思った。
(しかもこのように俺を愛して!)
カッと[#「カッと」は底本では「カツと」]胸の奥の燃えるのを感じ、全身がにわかに汗ばむのを覚えた。
(いっそあやめ[#「あやめ」に傍点]と一緒になろうか)
悲しみを含んだ甘い感情が、主税の心をひたひたと浸した。
あやめ[#「あやめ」に傍点]は涙の眼を見張って、主税の顔を見詰めている。
涙の面紗《ヴェール》を通して見えているものは、畳の上の主税の顔であった。男らしい端麗な顔であった。わけても誘惑的に見えているものは、潤いを持ったふくよかな口であった。
いつか夕陽が消えてしまって、野は黄昏《たそがれ》に入りかけていた。少し開いている障子の隙から、その黄昏の微光が、部屋の中へ入り込んで来て、部屋は雀色に仄めいて見え、その中にいる若い男女を、悩ましい艶かしい塑像のように見せた。
横倒しになっている主税の足許に、その縁を白く微光《ひか》らせながら、淀屋の独楽が転がっている。
と、その独楽を睨みながら、障子の外の縁側の方へ、生垣の裾から這い寄って来る、蟇《ひき》のような男があった。三下悪党の勘兵衛であった。
二つ目の独楽を持って
田安屋敷の乱闘の際に、あやめ[#「あやめ」に傍点]によって独楽の紐で、首を締められ一旦は死んだが、再び業強く生き返り、勘兵衛はその翌日からピンシャンしていた。
そうして今日は頼母のお供をし、頼母の弟の主馬之進《しゅめのしん》の家へ、――向こうに見える荏原屋敷へ来た。その途中で見かけたのが、野道での人だかりであった。そこで自分だけ引返して来て、群集に雑って魔法を見ていた。と、老人の小太い杖で、首根っ子をしたたか撲られた。息の止まりそうなその痛さ! 無我夢中で逃げて来ると、百姓家が立っていた。水でも貰おうと入り込んでみると、意外にも主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、艶な模様を描いているではないか。
淀屋の独楽さえ置いてある。
(凄いような獲物だ)と勘兵衛は思った。
(独楽を引っ攫って荏原屋敷へ駆けつけ、頼母様へ献上してやろう)
勘兵衛はこう心を定《き》めると、ソロリソロリと縁側の方へ、身をしずかに這い寄せて行った。
まだ痛む首根っ子を片手で抑え、別の片手を縁のふち[#「ふち」に傍点]へかけ、開いている障子の隙間から、部屋の中を窺っている勘兵衛の姿は、迫って来る宵闇の微光《うすびかり》の中で、まこと大きな蟇
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