った。すると奥方様は彼女に向かい、百までの数字を書いてごらんと云われた。不思議なことと思いながら、云われるままに彼女は書いた。彼女は部屋へ戻ってから、そのようにして数字を書かされた者が、自分一人ではなくて大奥全体の女が、同じように書かされたということを聞いて、少しばかり不安に思った。
すると、間もなく奥方様のお部屋へ、また彼女は呼び出された。行ってみると何とその部屋には、奥家老の松浦頼母がいて、一葉の紙片を突き出した。昨夜女猿廻しのお葉《よう》へ、独楽のなかへ封じ入れて投げて与えた、自分からの隠語の紙片であった。ハ――ッとお八重は溜息を吐いた。
頼母の訊問は烈しかった。
「隠語の文字と其方《そち》の文字、同一のものと思われる、其方この隠語を書いたであろう?」
「書きましてござります」
「お館の外の何者かと謀《はか》り、お館の器類を、数々盗んで持ち出したであろう?」
「お言葉通りにござります」
「これほどの大事を女の身一つで、行なったものとは思われぬ、何者に頼まれてこのようなことをしたか?」
「わたくしの利慾からにござります。決して誰人《どなた》にも頼まれましたのではなく……」
「黙れ、浅はかな、隠し立ていたすか! 尋常な品物であろうことか、代々の将軍家より賜わった、当家にとっては至極の宝物ばかりを、選りに選って盗んだは、単なる女の利慾からではない。頼んだ者があるはずじゃ、何者が頼んだか名を明かせ!」
しかしお八重は口を噤《つぐ》んで、それについては一言も答えなかった。すると頼母は訊問を転じ、
「お館の外の共謀者、何者であるか素性を申せ!」
「申し上げることなりませぬ」
この訊問に対しても、お八重は答えを拒んだのであった。
そこで、お八重は座敷牢へ入れられた。
すると、このような深夜になってから、頼母一人がやって来て、また訊問にとりかかったのであった。
(どうしてこんなことになったのだろう?)
(どうして秘密の隠語の紙が、ご家老様の手へなど渡ったのだろう?)
これが不思議でならなかった。
(女猿廻しのあのお葉が、では頼母様の手に捕らえられたのでは?)
お葉と宣《なの》っている女猿廻しは、お八重にとってはよい加担者であった。でもお葉を加担者に引き入れたのは、全く偶然のことからであった。――ある日お八重はお長屋の方へ、用を達すために何気なく行った。すると女
前へ
次へ
全90ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング