そとから舞い込んで来たらしい、雌雄《めお》の黄蝶がもつれ合いながら、襖へ時々羽を触れては、幽かな音を立てていた。
「例によりまして例の如くで」
主税の声が襖のむこうから、物憂そうに聞こえてきた。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]殿にはご機嫌そうな、三味線を弾いて小唄をうとうて」
「そう覚しめして?」と眉と眉との間へ、縦皺を二筋深く引き、
「昼日中なんの機嫌がよくて、三味線なんか弾きましょう」
「…………」
主税からの返事は聞こえてこなかった。
「ねえ主税様」と又あやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「心に悶えがあったればこそ、座頭の沢市《さわいち》は三味線を弾いて、小唄をうたったじゃアありませんか」
隣室からは返事がなく、幽かな空咳が聞こえてきた。
不平そうにあやめ[#「あやめ」に傍点]は立ち上ったが、開けられてある障子の間から、縁側や裏庭が見え、卯の花が雪のように咲いている、垣根を越して麦や野菜の、広々とした青い畑が、数十町も展開《ひら》けて見えた。
(何だろう? 人だかりがしているよ)
あやめ[#「あやめ」に傍点]は縁側へ出て行って、畑の中の野道の上に、十数人の男女が集まっているのへ、不思議そうに視線を投げた。
しかし距離が大分遠かったので、野道が白地の帯のように見え、人の姿が蟻のように見えるだけであった。
そこであやめ[#「あやめ」に傍点]は眼を移し、はるかあなたの野の涯に、起伏している小山や谷を背に、林のような木立に囲まれ、宏大な屋敷の立っているのを見た。
あやめ[#「あやめ」に傍点]にとっては実家であり、不思議と怪奇と神秘と伝説とで、有名な荏原屋敷であった。
あやめ[#「あやめ」に傍点]はしばらくその荏原屋敷を、憧憬《あこがれ》と憎悪《にくしみ》とのいりまじった眼で、まじろぎもせず眺めていたが、野道の上の人だかりが、にわかに動揺を起こしたので、慌ててその方へ眼をやった。
怪老人の魔法
野道の上に立っているのは、例の「飛加藤《とびかとう》の亜流」と呼ばれた、白髪自髯の老人と、昼も点っている龕燈を持った珠玉のように美しい少年とであり、百姓、子守娘、旅人、行商人、托鉢僧などがその二人を、面白そうに囲繞《とりま》いていた。
不思議な事件が行なわれていた。
美少年が手にした龕燈の光を、地面の一所へ投げかけていた。夕陽が強く照って
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