「ようござんすともおいでなせえ。明日《あす》ともいわず今日越しなせえ。……おい八蔵や八蔵や、お引っ越しの手伝いをしな」
手を拍って使僕《こもの》を呼んだものである。
馬琴の父は興蔵《こうぞう》といって松平|信成《のぶなり》の用人であったが、馬琴の幼時死亡した。家は長兄の興旨《こうし》が継いだが故あって主家を浪人した。しかし馬琴だけは止まって若殿のお相手をしたものである。しかるに若殿がお多分に洩れず没分暁漢《わからずや》の悪童で馬琴を撲ったり叩いたりした。そうでなくてさえ豪毅一徹清廉潔白の馬琴である。憤然として袖を払い、
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木がらしに思い立ちけり神の旅
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こういう一句を壁に認めると、飄然と主家を立ち去ってしまった。十四歳の時である。
「もうもう宮仕えは真平だ」
馬琴は固く決心したが、しかしそれでは食って行けない。止むを得ず戸田侯の徒士《かち》となったり旗本邸を廻り歩いたり、突然医家を志し幕府の典医|山本宗英《やまもとそうえい》の薬籠《やくろう》持ちとなって見たり、そうかと思うと儒者を志願し亀田|鵬斎《ほうさい》の門をくぐったり、石川
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