何となく寂しくなった。肩を落とし首を垂れ、うそ寒そうに足を運ぶ。
「京伝は俗物、一九は洒落者、そうして三馬は小皮肉家。……俺一人|彼奴《きゃつ》らと異《ちが》う。これは確かに寂しいことだ。しかし」と馬琴は昂然と、その人一倍大きな頭を、元気よく肩の上へ振上げたが、
「人は人だ、俺は俺だ! 俺はやっぱり俺の道を行こう。仁義礼智……教訓……指導……俺は道徳で押して行こう。俺の目的は済世救民だ!」
彼は足早に歩き出した。何の不安も無さそうである。
その翌日のことであったが、物堅い馬琴は約束通り、儀礼年始の正装で一九の家を訪れた。
「これはこれは滝沢氏、ようこそおいで下されやした。何はともあれ初湯一風呂さあさあザッとお召しなさりませ。湯加減も上々吉、湯の辞儀は水とやら十段目でいって居りやす。年賀の挨拶もそれからのこと、へへへへ、お風呂召しましょう」
一九は酷《ひど》くはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]廻り無闇と風呂を勧めるのであった。
東海道中膝栗毛
「左様でござるかな、仰せに従い、では一風呂いただきましょうかな」
馬琴は喜んで立ち上り、一九の案内で風呂場へ行ったが、やがて手早く式服を脱ぐと、まず手拭で肌を湿し、それから風呂へ身を沈めた。些か湯加減は温いようである。
「これは早速には出られそうもない。迂濶《うっか》り出ると風邪を引く。ちとこれは迷惑だわえ」
心中少しく閉口しながら馬琴はじっと[#「じっと」に傍点]沈んでいたが、銭湯と異い振舞い風呂、いつ迄漬かっても居られない。で手拭で体を拭き、急いで衣装を着けようとした。どうしたものか衣類がない。式服一切下襦袢までどこへ行ったものか影も形もない。
驚いた馬琴が手を拍つと、ノッソリ下男が頭を出したが、
「へえ、お客様、何かご用で?」
「私《わし》の衣類はどこへ遣ったな?」
「へえ、私《わたくし》知りましねえ」
「ご主人はどうなされた?」
「あわててどこかへ出て行きやした」
「何、出て行った? 客を捨てか?」
「珍しいことでごぜえません」
「寒くて耐らぬ。代わりの衣類は無いか」
「古布子《ふるぬのこ》ならござりますだ」
「古布子結構それを貸してくれ」
下男の持って来た布子を着、結び慣れない三尺を結び、座敷の真中へぽつねん[#「ぽつねん」に傍点]と坐り、馬琴は暫らく待っていたが、一九は容易に帰宅しない。
その中元旦の
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