をひっさげて、戯作界へ現われたのは馬琴にとっては容易ならない競争相手といってよかろう。
物を云う据風呂桶
それはある年の大晦日、しかも夕暮のことであったが、新しい草双紙の腹案をあれかこれかと考えながら、雑踏の深川の大通りを一人馬琴は歩いていた。
と、ボンと衝突《つきあた》った。
「ああ痛!」と思わず叫び俯向いていた顔をひょいと上げると、据風呂桶がニョッキリと眼の前に立っているではないか。
「えい箆棒《べらぼう》、気を付けろい!」
桶の中から人の声がする。
「桶を冠っているからにゃ、眼のみえねえのは解り切っていらあ。何でえ盲目《めくら》に衝突たりやがって。ええ気をつけろい気をつけろい!」
莫迦に威勢のよい捲き舌で桶の中の男は罵詈《ののし》ったが、馬琴にはその声に聞き覚えがあった。それに白昼の大晦日に、深川の通りを風呂桶を冠って横行闊歩する人間は、あの男以外[#「以外」は底本では「意外」]には無いはずである。
そこで馬琴は声を掛けて見た。
「おい貴公十返舎ではないか」
「え?」
桶の中の男は酷《ひど》く驚いた様子であったが、にわかにゲラゲラ笑い出し、
「解ったぞ解ったぞ声に聞き覚えがある。滝沢氏でござろうがな。アッハハハハ、奇遇々々。いかにも手前十返舎一九、冑《かぶと》を脱いでいざ見参! ありゃありゃありゃありゃ、ソレソレソレソレ」
掛声と一緒に据風呂桶を次第に高く持ち上げたが、ヌッと裾から顔を覗かせると、
「一夜明ければ新玉の年、初湯を立てようと存じやしてな、風呂桶を借りて参りやした。そこで何と滝沢氏、明日《あす》は是非とも年始がてら初湯を試みにお出かけ下され。確《しか》とお約束致しやした。しからばこれにて、ハイハイご免。ありゃありゃありゃありゃ、お隠れお隠れ、血塊々々、ソレソレソレソレ」
ふたたびスッポリ桶を冠るとやがてユサユサと歩き出した。
後を見送った曲亭馬琴は、笑うことさえ出来なかった。あまりに一九の遣り口が彼とかけ離れているからである。
「いやどうも呆れたものだ」
馬琴は静かに歩きながら思わず口へ出して呟いた。
「洒落と奇矯でこの浮世を夢のように送ろうとする。果してそれでよいものだろうか? 今江戸に住む戯作者という戯作者、立派な学者の太田蜀山さえ、そういう傾向を持っている。一体これでよいものだろうか? どうも自分には解らない」
馬琴は
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