ざまず》いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。
ユダだけは一人立っていた。
5
それは劇的の光景であった。
だが何物にも変化はなかった。
沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。
ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の側《そば》で、曳かれて来るキリストを待っていた。
それは劇的の光景であった。
使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。
「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。
「父から贈《くだ》された盃だ」
彼は両手を差し出した。
彼は、従容《しょうよう》と縄を受けた。
誰も彼もみんな立ち去った。橄欖山《かんらんざん》は静かになった。
ユダ一人が残っていた。
「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を希望《のぞ》んでいた人の様に、従容と縛に就《つ》こうとは? 一体|彼奴《あいつ》は何者だろう?」
ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。
楊《やなぎ》の木に体をもたせかけ、暁近い空を見た。
どうにも不安でならなかった。
イエスに対する審判は、その夜のうちに行なわれた。
祭司長カヤパはこう訊いた。
「お前は本当に神の子か?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「人の子|大権《たいけん》の右に坐し、天の雲の中に現われるだろう。お前達はそれを見るだろう」
カヤパの司どる猶太教《ユダヤきょう》からすれば、神の子だと自ら称することは、この上もない冒涜であった。その罪は将《まさ》に死に当たった。
人を死罪に行なうには、羅馬《ローマ》政府の方伯《ほうはく》たるピラトに聞かなければならなかった。
サンヒドリンの議員やパリサイ人や、祭司長カヤパは夜の明ける迄、愉快そうにイエスを嬲り物にした。
やがて夜が明けて朝となった。羅馬公庁ピラトの邸へ、カヤパ達はイエスをしょびいて[#「しょびいて」に傍点]行った。
それは金曜日にあたっていた。おりから逾越《すぎこし》の祝日《いわいび》で、往来には群集が漲っていた。家内では男女がはしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]いた。
ピラトは思慮のある官吏であった。しかし心が弱かった。
イエス一人を庁内へ呼び、
「お前は猶太の王なのか?」
彼は先ずこう訊いた。
「我国はこの世の国ではない」
これがイエスの返辞であった。
「とにかくお前は王なのか?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「俺はそのために生れたのだ。……すなわち真理を説くために」
イエスの謂う所の王の意味と、キリストの謂う所の国の意味とを、ピラトはそこで直覚した。
玄関へ出て彼は云った。
「この男には罪はない」
しかし群集は喜ばなかった。イエスを戸外《そと》へ引き出した。棘《いばら》の冕《かんむり》を頭に冠せ、紫の袍を肩へ着せ、そうして一整に[#「一整に」はママ]声を上げた。
「十字架に附けろ! 十字架に附けろ!」
エルサレム城外カルヴリの丘、そこへキリストを猟り立てて行った。
草の芽が満地を蔽っていた。樹立が丘を巡っていた。祭壇から煙りが立ち昇り、犠牲の小山羊が焚かれていた。殿堂では鐘が鳴らされていた。
イエスは十字架へ附けられた。
彼の苦しみは三時間つづいた。
「事は終った」と彼は云った。
彼の生命《いのち》が絶えた時、殿堂の幕が二つに裂け、大地が顫え墓が開らけた。
6
この頃ユダは橄欖山《かんらんざん》を、狂人《きちがい》のように歩いていた。
「彼は恐れず悲しまず、従容《しょうよう》として死んで行った。とにもかくにも凡人ではない。……では彼奴《あいつ》は預言者か?」
ユダにはそうは思われなかった。
「彼奴は帰する所妄信者なのだ。ただ預言者だと妄信しただけだ」
ユダはある歌を想い出した。それはイエスが幼《ちいさい》時から、愛誦したという歌であった。
[#ここから3字下げ]
至誠《まこと》をもて彼道を示さん
彼は衰《おとろ》えず落胆《きおち》せざるべし
道を地に立て終るまでは
彼は侮どられて人に捨られ
悲哀《かなしみ》の人にして悩みを知れり
[#ここで字下げ終わり]
「なるほど」とユダは呟いた。
「彼奴の如何《いか》にも好きそうな歌だ。そっくり彼奴にあてはまる[#「あてはまる」に傍点]からな」
「侮どられて人に捨られぬ」
「ほんとに侮どられて捨られた」
「彼は衰えず落胆せざるべし」
「これも全くその通りだ。最後まで落胆しなかった。……はてな、それではあの男は、そういう事を予期しながら、なおかつ道を立てようとして、ああ迄精進したのだろうか?」
ユダはにわかに行き詰まった。
「よし預言者でないにしても、妄信者以上の何者か、偉大な人間ではなかったろうか?」
彼の胸は痛くなった。
「いけないいけないこういう考えは! 世の中に偉人なんかありはしない。あると思うのは偏見だ。生きている物と死んでいる物、要するにただそれだけだ。そうして生物の世界では、雄と雌とがあるばかりだ。雌だ! 女だ! あっ、マリア!」
ユダは周章《あわて》て懐中《ふところ》を探った。銀三十枚が入っていた。
マグダラのマリアは唄っていた。
[#ここから3字下げ]
キリスト様が死んだとさ
[#ここで字下げ終わり]
「ふん、いい気味だ、思い知ったか。……妾《わたし》は最初《はじめ》あの人が好きで、香油《においあぶら》で足を洗い、精々ご機嫌を取ったのに、見返ろうとさえしなかったんだからね。そこでカヤパを情夫《いろ》にして、進めてあの人を殺させたのさ」
「マリア!」とユダが飛び込んで来た。
「銀三十枚! さあどうだ!」
ユダはマリアを抱き縮《すく》めた。
「まあお待ちよ、どれお見せ」
革財布をひったくり[#「ひったくり」に傍点]、一眼中を覗いたが、
「お気の毒さま、贋金だよ! 一度は妾も瞞《だま》されたが、へん、二度とは喰うものか! お前、カヤパに貰ったね。妾がカヤパに遣ったのさ」
ここ迄話して来た佐伯《さえき》氏は、椅子からヒョイと立ち上ると、ひどく異国的の革財布を、蒐集棚から取り出した。
「まあご覧なさい、これですよ、いまの伝説《はなし》の銀貨はね」
ドサリと投げるように卓《テーブル》の上へ置いた。
「私がエルサレムへ行った時、ある古道具屋で買ったもので勿論本物ではありません。あっちにもこっちにもあるやつでね。漫遊者相手のイカ物ですよ。……だが面白いじゃアありませんか、今も猶太《ユダヤ》の人間は、私がお話ししたように、キリストとユダとマリアとをそう解釈しているのですよ。そうして銀貨まで拵えて、理《もっとも》らしく売り付けるのです。猶太人に逢っちゃ敵《かな》わない。一番馬鹿なのがキリストで、その次に馬鹿なのがイスカリオテのユダ、そうしてその次がマリア嬢で、一番利口なのが革商人ということになるのですからね」
私は銀貨を手に取った。厚さ五分に幅一寸、長さ二寸という大きな貨幣《もの》で、持ち重りするほど重かった。そうして昨日《きのう》鋳たかのように、ひどくいい色に輝いていた。
「恐ろしく重いじゃアありませんか」
私は吃驚《びっくり》して佐伯氏に云った。
「ほんとに猶太の古代貨幣は、こんなに恐ろしく重かったのでしょうか?」
「さあ、そいつは解《わか》りません。だが日本の天保銭なども、随分大きくて重かったですよ。……紋章が面白いじゃアありませんか」
いかにも面白い紋章であった。
「どうです私の今の話、小説の材料にはなりませんかね」
「ええなりますとも大なりです」
こうは云ったが私としては、そう云われるのは厭であった。大概の人は小説家だと見ると、定《き》まって一つの話をして、そうして書けというからであった。もう鼻に付いていた。
とは云え確かにこの話は、書くだけの値打はあるらしい。偶像破壊、価値転倒、そうして無神論、虚無思想が、色濃く現われているからであった。勿論書くならイスカリオテのユダを、当然主人公にしなければなるまい。
7
「是非お書きなさい、お進めします」
旅行家でもあり蒐集家でもある、佐伯準一郎氏はこう云った。
「ついては貨幣をお貸ししましょう。その紋章を調べるだけでも、趣味があるじゃアありませんか。一枚と云わず三十枚、みんな持っておいでなさい。実は私は明日か明後日、またちょっと旅行に出かけますので、当分それは不用なのです。紛失《なく》されてはいささか困りますが、紛失なるような物ではなし、お貸しするとは云うものの、その実保管が願いたいので、ナーニご遠慮にゃア及びません。……それはそうと随分重い、とても持っては帰れますまい。ひとつ貸自動車《タクシ》を呼びましょう」
事実私はその貨幣にも、貨幣の紋章にも興味があった。そうして物語に綴るとしても、何かそういう貨幣のような、物的参考があるということは、確実性を現わす上に、非常に便利に思われた。
私は遠慮なく借りることにした。
その中タクシがやって来た。
佐伯氏は貨幣を革財布へ入れ、そうしてタクシへ運び込んでくれた。
「いずれ旅行から帰りましたら、お手紙を上げることにいたしましょう。いや私がお訪ねしましょう。文士の家庭を見るということも、ちょっと私には興味があるので、しかしこんなことを申し上げては、はなはだ失礼かもしれませんな」
佐伯氏は玄関でこんなことを云った。タクシがやがて動き出した。
「左様なら」と私は帽子を取った。
「左様なら」と佐伯氏は微笑した。
だが私にはその微笑[#「微笑」は底本では「微少」]が、ひどく気味悪く思われた。
名古屋の夜景は美しかった。鶴舞公園動物園の横を、私のタクシは駛《はし》って行った。
8
私のタクシは駛って行った。
公園は冬霧に埋もれていた。
公園を出ると町であった。町の燈も冬霧に埋もれていた。
名古屋市西区児玉町、二百二十三番地、二階建ての二軒長屋、新築の格子造り、それが私の住居《すまい》であった。
そこへタクシの着いたのは、二十五分ばかりの後であった。
妻の粂子《くめこ》は起きていた。
「遅かったのね」と咎めるように云った。私をしっかりと抱き介《かか》えた。それから頬をおっ[#「おっ」に傍点]付けた。これが彼女の習慣であった。子供のように扱うのであった。
二階の書斎へ入って行った。
「おい好い物を見せてあげよう。これはね、猶太《ユダヤ》の銀貨なのさ」
財布から銀貨を取り出した。
「まあやけ[#「やけ」に傍点]に大きいのね」
彼女は愉快そうに笑い出した。彼女の歯並は悪かった。上の前歯は二本を抜かし、後は全部|義歯《いれば》であった。笑うと義歯が露出した。それが私には好もしくなかった。だがその眼は可愛かった。眼尻の方から眼頭の方へ、一分ほど寄った一所の、下瞼が垂れていた。といって眼尻が下っているのではなかった。眼尻は普通の眼尻なのであった。ただそこだけが垂れていた。それがひどく[#「ひどく」に傍点]彼女の眼を、現代式に愛くるしくした。それは子供の眼であった。どこもかしこも発育したが、そこばっかりは子供のままに、ちっとも発育しなかったような、そういう愛くるしい眼なのであった。その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信頼してよかった。
その眼で愉快そうに笑った。
私はそこで説明した。
「これはね、途方もない贋金なのさ。銀のようにピカピカ光っているだろう。だが銀じゃアないんだよ。鉛かなにかが詰めてあるのさ。借りて来たんだよお友達からね。こいつで物語を作ろうってのさ。まあご覧よ紋章を」
紋章はみんな異《ちが》っていた。三十枚が三十枚ながら、別々の紋章を持っ
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