ね、たあた[#「たあた」に傍点]を」
足袋を穿けというのであった。
ある時私はこう云って訊いた。
「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」
「え、したのよ。県知事さんと」
大変サッパリした返辞であった。――それだから私には安心であった。
「お前は知っていて売ったのかい? ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の白金《プラチナ》だと」
「いいえ」と彼女は笑いながら云った。
「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」
「なるほど」と私は胸に落ちた。
「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」
私達二人は平和であった。
しかし私は時々思った。
「キッスぐらいは許したかもしれない」
だが直ぐ私は思い返した。
「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」
穏かに時が流れて行った。
ここに一つ残念なことには――だが良人たる私にとっては、かえってひどく[#「ひどく」に傍点]安心な事には、――彼女の容色がにわかに落ちた。
それは苦労をしたからであった。
いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷[#「重荷」は底本では「荷重」]を担いだため、俄然|縹緻《きりょう》を落としてしまった。
精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、不為《ふため》のように思われる。
私も随分苦労をした。
年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。
彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。身長《せい》も高くはなくなった。
だがそれも結構ではないか。
美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。
だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。
だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。
真夏が来、真夏が去った。[#底本ではここで改段]
二人の生活には変わりがなかった。
何でもないことだが云い落とした。
佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう?
やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。
底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
1993(平
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