のですね。ところが盗んだ日本人ですが、そんなこととは夢にも知らず、本物の素晴らしい白金だと、こう思って盗んで来たらしいのです」
「ははあ」と私は微笑して云った。
「本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか」
「おや、どうしてご存知です」
 博士はさもさも[#「さもさも」に傍点]驚いたように、
「仰せの通りそうなのですよ」
「だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう?」
「つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の守護《まもり》本尊は、イスカリオテのユダなんですね。本尊を贋金で作っては、どうもちょっと勿体ない、こういう意味からそれだけを、非常に高価な白金で、作ったのだということです。だが真偽は知りませんよ、伝説的の話ですから」
 私はそこで考えた。私の経験した物語を、博士の耳に入れようかしらと。……だが私は止めることにした。自慢の出来る物語ではなし、又その物語を語ることによって、消え去った不幸な私の妻を、辱しめる事を欲しなかったから。
 それからしばらく世間話をして、私は博士の邸を辞した。
 私には一つの疑問があった。
「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら? それとも偶然その貨幣を……」
「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。
「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと関係《かかわり》はない」

 下宿生活が不便になった。
「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」
 私は借家を探し出した。
 児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。
「おや」と私は思わず云った。
 表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」
 格子の内側に障子があり、障子には硝子《ガラス》が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。
「おや」と私はまた云った。
 見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまり[#「ちんまり」に傍点]とかしこまり、縫物をしているではないか。人の気勢《けはい》を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。
「粂子!」と私は声を上げた。
 
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