ら離れなかった。
「大金が彼女の懐中《ふところ》へ入った。そのため私は行くのではない。……だが確かめて見たいものだ」
私は公園を横切った。町へ姿を現わした。それから電車道を突っ切った。
こうして彼女の家の前へ立った。門を入り玄関へかかった。
「案内を乞うにも及ぶまい」――で私は上って行った。
書斎の扉《ドア》が開いていた。
大きく茫然と眼を見開き、――白昼に夢を見ているような、特殊な顔を窓の方へ向け、彼女が寝椅子に腰かけていた。
私は書斎へ入って行った。彼女の横へ腰を掛けた。しばらくの間黙っていた。
沈黙が部屋を占領した。
黙っていることは出来なかった。私は厳粛に彼女へ訊いた。
「話しておくれ。ねどうぞ。信じていいのかね、あの人の言葉を? 私はあの人に逢ったのだよ」
だが彼女は黙っていた。ただ弛そうに身を動かした。非常に疲労《つかれ》ているらしかった。
私は厳粛にもう一度訊いた。
「あの高価な白金《プラチナ》は、お前の物になったんだね。それを信じていいのだね?」
すると彼女は頷いた。それから私の手を取った。彼女の両手は熱かった。そうして劇しく顫えていた。彼女の咽喉が音を立てた。どうやら固唾を飲んだらしい。
私はその手を静かに放し、書斎を抜けて玄関へ出た。
「やっぱりいけない。この家は」
私は門から外へ出た。
「彼女は一層悪くなった。……嬉しさに心を取り乱している。そいつが[#「そいつが」に傍点]移ってはたまらない」
依然として下宿で暮らすことにした。
その翌日のことであった。
何気なく私は夕刊を見た。
「佐伯準一郎惨殺さる。自動車の中にて。……原因不明」
こういう記事が書いてあった。
「少し事件は悪化したな」
さすがに私は竦然とした。
「彼女の仕業《しわざ》ではあるまいか?」
ふと[#「ふと」に傍点]私はこう思った。
「昨日の佐伯氏のあの言葉は、どうも私には疑わしい。あれだけ高価の白金を、ああ早速にくれるはずがない。一度はくれると云ったものの、考え直して惜しくなり、取り返しに行ったのではあるまいか?」
私は理詰めに考えて見た。
「銀三十枚を取り返すため、佐伯氏が彼女を訪問する。彼女はそれを返すまいとする。必然的に衝突が起こる。それが嵩ずれば兇行となる。彼女の性質なら遣りかねない」
翌日の新聞が心待たれた。
だが翌日の新聞に
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