いるらしかった。
「さあお前達は監視《みまも》っていろ。……ヨハネ、ペテロ、ヤコブは来い。俺と一緒に来るがいい」
 こう云ってイエスは奥へ進んだ。
「俺は一人で祈りたい。お前達も帰って監視しろ」
 ついに三人をさえ追い払った。
 イエスはよろめき躓きながら、一人奥へ入って行った。
 と、林が立っていた。楊、橄欖《かんらん》の林であった。イエスはその中へ入って行った。そこへは月光は射さなかった。禁慾行者の禅定のような、沈黙ばかりが巣食っていた。
 突然イエスは自分の体を、大木の根元へ投げ出した。
「もし出来ることでございましたら、どうぞ私をお助け下さい! 父よ、あなたは万能です」
 白痴《ばか》か、子供か、臆病者か、そんなような憐れな声を上げて、こうイエスはお祈りをした。



 ユダは後を尾行《つけ》て来た。菩提樹の陰へ身を隠し、そこから様子をうかがった。
 彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、疾《やまし》くなかった事を知ることが出来た。
「彼奴《あいつ》はイエスだ、ただイエスだ。なんの彼奴が預言者《キリスト》なものか! 預言者《よげんしゃ》なら助けを乞うはずはない。例の得意の奇蹟というので、さっさと難を遁れるはずだ。しかし」と彼は考え込んだ。
「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら? そうして難を遁れたら?」
 彼は心に痛みを感じた。
「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」
 梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。
 やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。
 不安と疲労《つかれ》とで使徒達は、木の根や岩角を枕とし、昏々《こんこん》として眠っていた。
 イエスは一人々々呼び起こした。
「眠っては不可《いけ》ない。お祈りをしよう」
 ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。
 しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。[#「眠り出した。」は底本では「眠り出した、」]麻痺的に病的に眠いらしい。
「また眠るのか、何ということだ! 惑《まど》いに[#
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